今日のウオズミ

サラリーマンの雑記。かっこいいサラリーマンを目指すのだ

【黒歴史】電撃大賞1次落ち→小説家になろうに載せてたラノベを晒す

どうも、ウオズミです。

恥ずかしながら、学生時代は小説家を目指していました。

純文学っぽいのもラノベも書きました。

残念ながらどの賞にも引っかからず、ラノベ何作かはあの有名な「小説家になろう」にも投稿してましたがそちらでも鳴かず飛ばず。

こりゃアカンと思い普通に就活してサラリーマンになりました。もう小説書くこともどっかに発表する機会もねえだろーなと。

 

しかし、何の因果か僕は今ブログという自己表現の場を手に入れてしまった!

せっかく書いた長編小説が誰の目にも留まらないというのはやっぱりちょっと忍びない。ということでこの記事内で晒そうと思います。

まあ供養的な意味合いもこめてな。

ちなみに1次落ちしたときの選評で「文章が冗長でテンポが悪い」「登場人物の心情が分かりづらい」などボロクソ言われてるんで(まあ1次落ちだししゃーなし)、読むにしても期待はしないでください。笑

  

あとあらすじとしては一昔前のラブコメって感じです。

冬のある日、両親を亡くして一人暮らしをしている柴野明は弱っている犬を拾った。しかし翌朝、幼馴染の桜場恵子に起こされてみると、昨日拾った犬はおらず、代わりにハナと名乗る少女が明の布団に一緒に寝ていた。

一応これが「なろう」の冒頭に載せてたあらすじです。つまんなそーーー

タイトルは『ストレイドッグ・ブライド』直訳で「捨て犬嫁」ってとこですかね。

死ぬほどダサいっすね。でも僕こういうの好きなの!英単語をカタカナ表記で書くの好きなの!『フルメタル・パニック』とか『世界の終わりのハードボイルド・ワンダーランド』とかそういうタイトル大好きなの!

ええやろ別に!はやってなくても僕は好きなの!分かる人だけ分かって!

 

ではこの先超長文注意。はてなでの1記事に使える文字数は5万文字程度のようなので、半分くらいしか載せてないです。多分「晒す②」とか作って続き晒すわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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冬の朝は、寒い。今朝は今年一番の冷え込みとなるでしょう――もう何度耳にしたか分からないフレーズを思い出しながら、桜場恵子はかじかむ手をこすりこすり、はあっとその手に息を吹きかける。暦の上ではもう春も近いというのに、いまだ春の足音を感じさせない木枯らしが、きゃしゃな恵子の体を冷たくなでる。申し訳程度の温もりは、鞄の中の鍵をつかむ頃には木枯らしに吹き飛ばされてしまって、指先から伝わる金属のひんやりした感触が身にしみる。恵子は静かに玄関の鍵を開けると、扉を小さく開く。そのまま家の中に向かって、返事がないことを期待しつつ控えめに声をかけた。

「おじゃましまーす……」

 そして恵子の期待通り、返事はない。

「まったく、明は私がいないとダメなんだから」

 恵子は呆れたように呟く。だけどその表情はどこか嬉しそうにも見える。脱いだ靴を丁寧に揃えると、放っておいたらいつまでも寝ていそうな幼馴染――柴野明の部屋へと向かう。彼には両親がいない。彼の両親が亡くなって以来、朝に明を起こすのは恵子の役目だった。口では嫌がっているけれど、恵子が合い鍵を持つことについては何も言ってこないので、きっと明だって本当はそんなに嫌じゃないはずなのだ。恵子は、いつもそうしているように、鼻歌を歌いながらぴょんぴょんと軽やかに、しかし明を起こしてしまわないようにそうっと、明の部屋へ続く階段を上り始めた。歩くたびに一緒に跳ねるポニーテールがくすぐったい。くすぐったさにつられて自然と笑顔になる。恵子は明の寝顔を眺めるのが好きだった。なにせ、寝ている時くらいしか明は素直な顔をしてくれないのだ。明の部屋の前に立ち、恵子はお嫁さん気取りでドアを開けた。

「明、朝だよ。早く起きないとまた遅刻しちゃ……う……」

 いつもと同じように部屋に入った恵子はしかし、驚きに目を見開いて言葉を失う。部屋の中には何もおかしなところはない。男の子の部屋にしてはちょっと神経質に思えるくらいにきちんと片付いているし、部屋の主である明も、穏やかな顔でぐっすり眠っている。いつも通りの朝だった。ただ一つ、見たことのない少女が明と同じベッドで眠りこけているのを除いては。

 恵子は大きく息を吸い込んで、そして明の体の上に馬乗りになって、彼の胸倉をつかみ上げ、叫んだ。

「起きなさい! あきら! 今すぐに!」

明はいつもよりずいぶんと乱暴に起こされることとなった。

 

 

 胸倉をつかまれてがくんがくんと揺さぶられた明はたまらず目を開けた。明の朝一番の寝ぼけ眼がとらえたのは、普段は明るい幼馴染の、鬼のような形相だった。恵子は明が目覚めたことにも気付かずに、ポニーテールを振り回しながら明の体を揺さぶり続ける。

「恵子、やめろ。起きてる、起きてるからやめてくれ」

 とにかくこの状況から逃れようと、明は寝ぼけた声で必死に恵子をなだめようとした。恵子はようやく我に帰り手を緩めてくれたのだが、その厳しい目つきは変わらない。乱れた髪を整えながらも、じっと恨めしそうに明を睨み続けている。明には何が何だか分からない。何か知らないうちに恵子の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと記憶を探ってみるけれど、心当たりはない。

「どうしたんだよ。遅刻しそうなら先に行ってくれ」

 とりあえず明は寝ぼけ半分の頭で最大限の努力をしてそう言ってみた。けれど恵子は明にまたがったまま動こうとしない。それどころかどんどん睨みつける目つきが険しくなっていく。普段のぱっちりとした快活な瞳が台無しだ。まだ二年生ながら、文化祭の『ミス和田高選手権』で第三位に輝いたその美貌の面影は、もはやない。しかし恵子は、そんなこと気にも留めずに明を睨み続ける。

「となり」

 ぼそっと、絞り出すようにすごい迫力で恵子が喋った。

「となり? 三沢さんがどうかしたのか」

 いまだ事態を把握出来ていない明は、首をかしげながらお隣に住む老人の身に何かあったのかと少し心配そうな顔をした。しかしどうやらそれがまた恵子の逆鱗に触れてしまったみたいで、

「そうじゃなくて! 明の隣に寝てるこの子は誰かって言ってるの!」

 言うなり恵子は明の顔を両手でがっしりとつかみ、無理やり左を向かせた。そこで明はようやく、どうしてこんなに恵子が怒っているのかが分かった。明の目に入ったのは、この騒ぎも全然気にしないでぐっすりと眠っている少女の姿だった。そして、明にとってはどうしようもないほど都合の悪いことに、その少女は裸だった。

 

 

まず少しくすんだ栗色の、やや癖の強い短い髪が目に入った。

そしてその下から見える白い首筋から肩にかけてのラインが艶めかしい。うつ伏せになって、頭が枕から落ちているのも気にせず、幸せそうに眠るその横顔は、やや明よりも幼さを感じさせるが、それでもかなり整っているのが見て取れた。長い睫毛に、すらりと通った鼻筋、薄い唇――

「ちょっと、何じっくり眺めてんのよ」

 そこまで観察したところで、恵子がまたぐいっと明の顔を正面に戻した。

 これは夢ではなかろうか、明はそうやって目の前の理解しがたい状況から逃げ出そうとした。しかし今まさにむんずと明の顔を捕まえている万力のような恵子の両手が、なかなか耐えがたい痛みをもってこれは現実なのだと教えてくれている。

「で?どういうことなの?」

 恵子は明を睨みつけたまま、そして明の顔を両手でがっちりと捕えたまま、白状しろと明に詰め寄って来た。

「知らねえよ。俺だって今起きて混乱してんだ」

 けれど、さすがに寝起きで面食らっていた明も、頭が冴えてくるにつれてこの理不尽な状況にだんだんと怒りを感じてきて、そういつも以上に無愛想な返事をしてしまい、その態度がますます恵子の怒りに油を注いでしまった。

「混乱してるとかそういうことを聞いてるんじゃないの! この子は一体誰で、明の何なのかって聞いてるの!」

 恵子は今や明の顔面を握り潰さんばかりに押さえつけている。体勢は完全に恵子に分がある。身に覚えのないことで殺されてはたまらんと、明は隣で眠る少女に助けを求めた。

「いてっ、恵子やめろ! わかったから! おい、お前! 起きろ! 起きて説明しろ!」

 顔を思いっきり押さえつけられたまま、明は隣の少女に手を伸ばす。肩をつかんで揺さぶろうとしたが、少女が裸であることに気付いて、少女の頭に目標を変更する。知らない女性の髪に触れるのもどうかと一瞬迷うが、この際贅沢は言っていられない。明は少女の頭をつかみ、自分が今まさにされているよりは優しく丁寧に揺すり、もう一度声をかけた。

「おい! おいってば! 起きろ!」

「……んー、ん」

 まだ眠いのだろう、少女は不満げな声を上げる。だが明はここで止まるわけにはいかない。なんたって自分の命がかかっている。もっと強く少女の頭を揺さぶる。

 するとふいに、少女がぱっちりと目を開いた。たれ目がちな瞼の中に、髪と同じ栗色の瞳が見えた。これで助かったと明は思った。この少女が誰なのかなど知らないが、自分とは無関係でここにいるのは何かの間違いだと、神隠しか何かに遭って目が覚めたらここにいましたとでも何とでも言ってくれさえすれば、とにかく一時的にでも問題はそっちに移る。明はそう期待していた。そしてそれは大きな間違いであった。

「……あ、朝だ。おはよっ。昨日はありがとう」

その少女は明がどんな危機的状況に陥っているかなど気にも留めずに、にっこりと顔全体で笑顔を作ってそう言ってのけた。こいつは何を言っているんだとまず明は考えた。そして彼女がどういうつもりだったにせよ、少女の口から出た言葉は、今現在のどうしようもないこの状況を悪化させるものであったのだと、顔面をつかむ恵子の力がさらに強くなったことで、明は静かに悟った。

「ふーん……。そう。昨日はお楽しみだったのね……」

強くなり続ける明の顔をつかむ力とは対照的に、恵子の声のトーンは一気に冷たくなった。さっきまでの大騒ぎがまるでかわいいもののような迫力だ。これはまずい。恵子の怒りが限界を越えた合図だ。とにかく何とかしてこの怒りを鎮めなければいけない。

「ま、待て。本当に何が何だか分からないんだ。俺は本当に何も知らない。信じてくれ!」

「えー? 何も知らないってどういうことっ? 昨日、あんなに体の隅々まで見られて、あたしすっごく恥ずかしかったのにー」

「なっ……」

しかし意外な方向からの新たな攻撃に明は言葉を失った。絶望的な気持ちでそちらに目を向けると、少女はちょっと顔を赤くして拗ねたように明を見つめていた。その表情は嘘をついているようには見えず、不実を責めるような眼差しがますます明を混乱させた。ふと、恵子の両手の力が緩んだ。長年の経験から、明は次に渾身の一撃が来ることをすでに覚悟していた。この体勢からだと、ビンタか、エルボーか。明はとっさに身構え、少しでもダメージを減らそうと試みた。だがそのどちらも明にヒットすることはなかった。恵子は明の体に馬乗りになったまま、ただ悲しい顔をするだけだった。

「ばか」

 大きな目にいっぱい涙を浮かべて、恵子はそれだけ言った。そしてベッドから降りると、自分の鞄を拾い上げ、走って部屋から出て行ってしまった。

「お、おい恵子!」

慌ててベッドを飛び出し、恵子を追って階段を駆け降りたが、玄関を開け放したまま走って行った恵子の後ろ姿を見て、そのあと玄関の姿見に写った自分のパジャマ姿と寝癖だらけの頭を見て、明は追いかけるのを諦めた。

とりあえず玄関は閉めなければと、のろのろと下駄箱からサンダルを取りだそうとして、明は下駄箱の上に見覚えのある鍵を見つけた。恵子がいつも使っていた明の家の合鍵だ。いつか明がクレーンゲームで取った、よく分からない子猫のキーホルダーをつけた合鍵が、ぽつんと下駄箱の上に寂しく置いてあった。鍵の本体もろとも置いて行かれた古臭いキーホルダーが哀愁を誘う。

「これは、本格的にまずいな……」

 明は今まで数え切れないほど恵子を怒らせてきたけれど、結局はいつも、何か甘いものをおごったり、ちょっと手の込んだ夕食を作ってやったりして、許されてきた。その恵子の『許した』サインが朝に明を起こしに来ることだったのだが、合鍵がなければいつもの『許した』は出来ない。今回の恵子の怒りの深さを思い知り、明は頭を抱えた。

 しかし頭を抱えていても問題は解決しない。部屋にはまだあの謎の少女がいるままなのだ。とにかく彼女をどうにかしないと恵子を追って学校にも行けない。明は寝起きのせいだけではない頭の重さを感じながら、自室へと向かう階段を一歩一歩、部屋にさえ辿り着かなければ問題は先延ばしに出来るとばかりにゆっくりと上り始めた。

「えっと、俺は、昨日……」

 そうしながら少しでも頭の中を整理しようと、昨日の出来事を思い出そうとする。

 

 

 その日、アルバイト先の洋食店からの帰り道で、明は首輪のついていない犬を見つけた。冷たい雨の中で薄汚れた栗色の毛を震わせて、街灯の弱い光の下で、寒そうにうずくまっていた。明はちょっとびっくりした。今時、野良犬なんて住宅地ではまず見かけない。これはどうしたもんかと、明はしばし立ち止まってその犬をぼんやりと眺めていた。すると、その犬も視線に気付いたようで、明の方にゆっくりと目を向けた。助けを求めるような、それでいて、もうどうでもいいとも思っているような目だった。不意に、明は両親が死んだ時のことを思い出した。アルバイト先で面倒を見てくれている伯父夫婦に両親の話を聞かされた直後だったからかもしれない。明はその犬の目に、ちょっと昔の、両親を失ってすぐの自分の姿を見た気がした。寂しいくせに塞ぎこんで、誰かに助けてほしいと思っているくせに誰とも目を合わせなかった、当時の自分を思い出す。気付いた時には、明はその犬を両手で抱え上げていた。

犬なんか飼ってもどうせまた先に死んでしまうんだぞ、その時に悲しい思いをするのはお前なんだぞ、と理性が訴えかけてくる。でも明はもういい加減一人で暮らすのにうんざりしていた。明は寂しかった。高校を卒業するまでは、と伯父夫婦にわがままを言って取り壊しを逃れた両親との思い出が残る一軒家は、明にはちょっと広すぎた。明はその犬をどうしても手放すことが出来なかった。

家に帰ると、まず犬と一緒に風呂に入った。犬は少し抵抗したけれど、そのうち諦めたのかおとなくなった。洗う最中、犬はメスであることが判明した。明は犬の体を丁寧に洗ってやると、バスタオルで全身をくるんでリビングまで抱えて運んだ。まだ成犬には達していないように見えたその犬は意外と重く、でもその重さが明には心地よかった。

皿に注がれたミルクに犬が夢中になっている間に、明は残り物の冷や飯に、これまた残り物のみそ汁をかけて、適当な餌を作ってやる。食べてもらえるか不安だったけれど、腹が減っていたのか、犬はきれいにそれをたいらげた。

犬は見るからに室内犬ではなかったが、その日だけでも明は犬と同じ所で眠りたかった。食後で妙に人間くさくくつろぐ犬を、ボロのタオルを段ボール箱に敷き詰めて作った即席のベッドに入れ、自分の部屋まで運び、明は電気を消した。

「今日からよろしくな」

 その日家族になったばかりの犬にそう声をかけ、明はベッドに入った。久しぶりに感じる自分以外の息遣いが、暗闇の中で明を安心させた。まだ拾って数時間しか経っていない、名前も決めていないその犬が、こんなにも心を落ち着かせてくれるとは。慣れないことをして疲れていたのだろう、犬が眠ったかどうか確認する前に、明は深い眠りに落ちてしまっていた――

 

 

「そうだ。それで朝起きたらあの女がいて犬がいなくなってたんだ」

 明は昨日の事を思い出し、そして自分の部屋に犬がいなかったことに気付いた。あの女、人の犬をどこにやりやがった。状況が飲み込めてくると、今朝の理不尽な仕打ちの数々への怒りがまただんだんと湧き上がってきた。

 その怒りにまかせて階段をだんだんと荒々しく上りきると、明は自分の部屋へと乗り込み、叫ぶ。

「おいお前! うちの犬をどこにやった!」

 そして、お前は一体何者なんだ、と続けようとした。

「ちょ、ちょっとっ、あたしまだ服着てないよー」

しかしその言葉は、謎の少女の慌てた声に遮られた。いつの間にか起き上がっていた彼女は、タンスをあさって着るものを探したのだろう、下半身こそ明のハーフパンツを履いていたが上半身はまだ裸のままだった。彼女は両手で胸を隠しながら明に背を向け、恥ずかしそうにしゃがみこんでしまった。

「お、わ、悪い」

 理由はどうあれ、女性の裸を見てしまった罪悪感から、明は思わず謝ってしまう。ちらりと見えた少女の裸が脳裏に焼きついて、明は完全に勢いを失ってしまった。

「とりあえずこれでも着ろよ。俺は後ろ向いてるから」

 せめてもの罪滅ぼしと、明はタンスの中から急いで適当なパーカーを取り出して少女に放り投げた。そして言った通り少女に背を向ける。

「ん」

 ごそごそ音を立てて少女がそれを着るのを明は黙って待つ。ずいぶんと間抜けな絵面だと明は思った。どうして我が家の自室でこんなことになっているのだ。いらいらと明は後ろの少女に声をかける。

「おい、まだか?」

「もうちょっとー」

 背後からくぐもった声が返ってくる。どうやらパーカーに頭を突っ込んでいるようだ。

「もういいよー」

 明がもう一度急かそうとしたその時、少しおどけたような声が背後から聞こえた。待たされた明はため息をつきながら改めて少女の方に向き直る。さっさと話を聞いてしまおう。

「それで?」

 まるでついさっき恵子にされた質問を繰り返すように明は少女に尋ねた。

「それで?」

 少女がおうむ返しに明に聞き返す。質問の意味が分からない、といった表情できょとんと首を傾げるばかりである。明はよっぽどこのわけの分からない少女を怒鳴りつけてやりたい気分になるけれど、ここはぐっとこらえて冷静に話を続ける。

「それで、お前は一体誰なんだ、と聞いてるんだ」

「えー? それって、昨日のこと、なんにも覚えてないってことっ? それはちょっとひどいと思うなー」

「そういうのはいい。お前が誰なのかって聞いてるんだ」

「ほんとに覚えてないのー? ちょっとあなたの記憶力が心配になっちゃうなー」

「うるさい。俺の記憶力は正常だ」

なかなか会話が進まない上に、自分の記憶力まで疑われ、思わず明は言い返してしまう。

 だが少女もなかなか引き下がらない。

「ほんとかなー。じゃああなたが覚えてる昨日のことを話してみてよ」

 なぜか明に疑いの目を向けて、少女はそう言った。明は、そんな筋合いはないと突っぱねようかとも思ったが、もうこれ以上話をややこしくするのは嫌だったので、おとなしく従うことにした。

「ただし、俺が昨日のことを話したら、お前が何なのかいい加減に話せよ」

「あなたが昨日のことをちゃんと覚えているんなら、あたしがわざわざ名乗る必要なんてないんだけどなー」

 まだ言うか、と明は悪態をつく。

「まず昨日は、バイトの帰りで犬を拾ったんだ」

 うんうん、と少女が相槌を打つ。

「それでその犬を家に連れて帰って、そいつの体を洗って、餌をやって、寝た。これだけだ」

 明はとりあえず思い出すままに昨日の出来事を語った。もちろん少女が登場する余地などどこにもない。と明は思う。これでもまだ記憶がうんぬんと言い出すのだろうかと、明は半ばうんざりとした気持ちで少女の反応を覗った。

「なーんだっ! ちゃんと覚えてるじゃない」

 ところが、少女の反応は明の予想していないものだった。

「よかったー。心配して損しちゃったよ。でも、優しそうな人で安心した。よろしくねっ」

 少女は満足げに明ににっこりと笑いかける。

「い、いや、俺が今話したのは昨日拾った犬のことだぞ?」

 それで納得いかないのは明だ。明の記憶が間違っていないのなら、この部屋には少女ではなくて犬がいるはずなのだ。

「その犬の話と、お前に、何の関係があるんだ?」

「だからっ、あなたが昨日あたしを拾ったっていう話でしょ?」

「そうじゃなくて! 俺が昨日拾ったのは犬であって、人間のお前じゃない!」

 明はもう本格的に頭がこんがらがってきた。日本語が通じない。もしかして自分はとんでもないものを相手にしてしまっているのではないか、これは警察を呼んだ方がいいのではないか、と明が一人で青くなっていると、あっ、と、少女が何かに気付いたように声を上げた。

「そっかそっか。まだちゃんと話してなかったもんね。ごめんねっ、分かりづらくて。つまりね、あたしが、あなたが昨日拾った犬なの」

 これで分かったでしょう、とでも言いたげな顔で少女はにっこり笑った。当然ながら、明にはさっぱり理解出来ない。

「いや、何言ってるか全然分からないぞ」

「えっ? あれっ?」

 明の指摘を受けて、自信満々だった少女は途端にうろたえ始める。視線がさまよい、困ったように眉をハの字に歪める。たれ目がちな目と相まって、余計に頼りない印象を明に与えた。本気でそのひと言ですべてを説明出来ていたと思っていたようだ。

「えっと……じゃあどうしよう。あっ、そうだ! じゃあ今からちゃんとした証拠を見せてあげる!」

 少し考えた後、少女は、今度こそ大丈夫、とやけに気合いの入った表情で明に向き直ったが、たれ目のせいでいまいち締まらない。今度はどうするんだと明が思っていると、

「いくよー! ちゃんと見ててねっ!」

 変身っ、というかけ声とともに、少女の体に変化が表れた。

「な……な……」

 それはまさに『変身』だった。少女の体はみるみるうちに毛深くなり、頭からは犬の耳、そして尻からは尻尾のようなものが生えてきて――そしてほんの数秒後には、明の貸したパーカーにすっぽりと体全体が隠れてしまうほどに小さくなってしまった。

「…………」

 明が驚きのあまり呆然としていると、パーカーの中から見覚えのある犬が這い出てきて、一声、わん、と鳴いた。それはまぎれもなく明が昨日拾った犬だった。

「お、お前が今、犬になったのか?」

 まだこの目で見た光景が信じられないという風に明が聞いた。わん、とまた一声犬が鳴いた。

「イエスって意味か……?」

 恐る恐る明は犬に手を伸ばす。しかし犬はその手を避け、部屋の隅に逃げてしまう。

「おい、なんで逃げるんだよ」

 明もそれを追いかけ、また手を出す。だが犬はまたもその手から逃げ、ベッドの中にもぐり込んでしまった。

「どうしたんだ、急に……」

 そう明が一人ごちると、彼女は布団の中で人間の姿に戻ったようで、毛布から頭だけを出し、

「犬の姿の時は裸だから、触られるのは恥ずかしいのっ。疲れてたから抵抗しなかったけど、昨日お風呂に入った時も、すっごく恥ずかしかったんだからー。あんなに隅々まで、あたしの体をじっくりと見て、それだけじゃ飽き足らずに、あまつさえその両手であんなところやこんなところまで……。もうっ、大胆なんだからー」

 顔を赤らめて、けれどなんだか嬉しそうにちらりと明を見た。

「なっ……」

 思わず先ほど見てしまった少女の艶めかしい体を思い出してしまい、明も口ごもる。少女はさほど気にしていない様子だが、明はなんとも言えない恥ずかしさを感じる。

「と、とりあえず、着ろよ」

 明は気まずさをごまかすように、ベッドの中の人間の姿をした少女に、彼女が今まで着ていた服を放り投げてやる。

「ん。ありがとー」

 彼女はベッドの中でもぞもぞと動き、放り投げられた服を再び身に着ける。なんとなくそれを直視するのが恥ずかしい明は、壁に掛かっている時計に目をやった。時計は七時半過ぎを指している。恵子が明を起こしに来たのが七時過ぎだから、まだ三十分ほどしか経っていないことになる。家から学校までは歩いて十五分ほどだから、今家を出れば余裕で始業には間に合うが、目の前の問題をどうにかするまではそれどころではないだろう。

「はあ、今日の一時間目は国語だったな……」

 明が、普段なら考えもしない授業のことを思い、しばしの現実逃避をしていると、

「終わったよー」

服を着た人間の姿の少女がベッドから出てきた。

「これであたしが何者なのかっていうのは分かったでしょ? そういうわけだからよろしくね。さっ、そろそろ家を出ないと学校に遅刻しちゃうよー」

 そして、今度こそすべて解決した、というように明を促す。

「お、おう」

 今まで学校のことを考えていた明も思わずそれに従いそうになる。が、制服に着替えようとした時に何かがおかしいと気付いた。明は制服に伸ばしかけた手を引っ込め、少女に詰め寄る。

「いや、まだ話は終わってない! お前が昨日の犬だってのは分かったけど、結局お前が何者なのかは聞いてないぞ!」

「えー、女の過去は聞かないでおくのが男ってもんじゃないのー?」

「うるさい。お前は女じゃなくて犬として拾われたんだ。飼い主の命令は聞け」

 そう彼女の不満を一蹴しつつ、明は続ける。

「だいたい、人間に変身出来る犬なんてありえないだろ。どんな魔法を使ったんだ」

「魔法なんかじゃなくてれっきとした科学の力だよっ。それに! あたしは人間に変身出来る犬じゃなくて、犬に変身出来る人間なんだから。間違えないでよー」

 と、少女は明の言葉にほっぺたを膨らまして言い返してきた。人間か犬か、というのは彼女にとって大きな意味のある問題らしい。が、明はそれも一蹴してさらに言う。

「魔法か科学かなんて問題じゃない。今俺が聞きたいのは、お前がどういう経緯で昨日道端に寝っ転がってたのかってことだ。あと、拾う時に犬だったから、俺にとってお前は犬だ。ペットだ」

「もうっ!あたしは人間なの! それがあたしのアイデンティティなの! それにさっきからお前お前って! あたしにはハナっていう立派な名前があるんだから、ちゃんと名前で呼んでよー!」

 さらにほっぺたを膨らまし、負けじとハナと名乗った少女も言い返す。一向に進まない会話に、明は目まいすら感じるけれど、どうにかこうにかこらえ、とにかく情報を引き出そうとした。

「ああ、分かった分かった。それで、お前は」

「ハナ!」

 ぴきり、と明の額に青筋が走った。明はもう我慢の限界だと思った。

「いい加減にしないと家から追い出すぞ」

 効果はてきめんだった。これまで妙に自信たっぷりだった少女の顔はさっと青ざめ、おどおどと視線をさまよわせ始めた。

「それは……困る……」

「じゃあ飼い主の言うことを聞け。どうしてそんな体で、どうして昨日あの道端で転がってたのかを話せ」

「むー……」

少女はまたしても犬扱いされたことに少し不満そうな顔をしたが、脅しが効いたのか何も口答えはしなかった。

「分かったよー。話せばいいんでしょー。ま、お互いのことを理解したいっていうあなたの気持ちを尊重するよ」

 また眉をハの字にした情けない表情をしながら、少女はしぶしぶと話し出す。

「んっとね」

 しかし、話せば長いことながら、と彼女がやや芝居がかった口調でそう切り出した時、ぐう、と大きな音が部屋に響いた。少女は恥ずかしそうに、

「話せば長いことですので、出来ればその前に朝ごはんをいただけたら……」

 鳴り続ける腹を押さえながら明に頼んだ。

「はあ……」

学校に遅刻する覚悟はとっくにしていたが、もう今日は無断欠席する覚悟に切り替るべきだろうかと、明はがっくりと肩を落とした。

 

 

「ごちそうさまでしたっ」

 ハナは両手を合わせてぺこりと明に一礼した。

「おいしかったー! あなたはいいお婿さんになるねっ」

「ハムエッグにうまいもまずいもないだろ」

「そんなことないよっ! 博士はいつも失敗ばっかりしてて、全然うまく作れないんだもん」

 たかがそんなことでと呆れている明をよそに、ハナは明が作った朝食への賛辞――いかにハムの焼き色が美しいかとか、黄身の半熟具合が絶妙かとか――を述べる。

「はいはい。わかったからそろそろ俺の質問に答えてくれ」

 明はその賛辞は無視して、自分の分だけの食後のコーヒーを準備しながらハナを促す。

「あ、あたしにもコーヒーちょうだい。砂糖いっぱい入れてねー」

「犬にカフェインは毒だろ。黙って牛乳でも飲んでろ」

「あたしは人間だってばっ。もー、全然分かってないんだからー」

「まだ何も説明されてないんだから分かるわけないだろ」

明は牛乳が注がれたマグカップをどんとハナの前に置いた。むう、とハナが唸ったが、どうしてもコーヒーを飲みたいというわけでもないらしく、おとなしくそれに口をつけた。

 ハナは一息で半分ほどマグカップの中身を空けると、一呼吸おいて、どこから話せばいいのかな、と記憶を探るように視線を宙に泳がせた。

 

 

――正直に言うとね、あたし自身どういう原理でこうなっているのかは分からないの。あたしにとっては、生まれた時から出来たことだから。あなたも、どうして歩けるのか、とか、どうして声を出せるのか、って聞かれてもちょっと困るでしょ? あたしにとって人間から犬に変身するのもそんな感じなの。んー、でも、こんなこと言っても分かりづらいよねー。やっぱり最初から話すねっ。

 多分あなたは知らないと思うけど、この近くに生物工学について研究してる研究所があるの。研究所っていうのはちょっと立派すぎるかな、ほとんど一人の博士が独学でやってる山小屋みたいなところだから。で、その研究所はね、その分野の中でも、特に遺伝子工学とかそういうのを非合法にやってるところなの。違う生き物の遺伝子を合成させて新しい生き物を造りだそうとしたり、皮膚の組織からクローンを造ろうとしたり。まあ、今の日本の技術力よりは進んでると思うよ。

 でね、あたしはそこで生まれたの。生まれた、っていうのは違うけど、あたしにとってはそこで生まれたのと同じ。あたしはね、人間と犬の遺伝子を合成して造られたの。んー、でも、造られたっていうのもちょっと違うかも。ごめんね。人に自分のことを説明するなんて初めてだから、うまく出来ないや。

 えっとね、あたしにはその時の記憶がないから、全部その博士から聞いたことなんだけどね、ある日博士が研究所から出かけようとしたら、山の中で女の子と犬が仲良く並んで倒れてるのを見つけたの。その日は雨が降っていて、その女の子と犬は今にも死にそうなくらいに弱ってたんだって。ふふっ。まるで昨日のあたしみたいでしょ。それでね、博士はそれを見て放っておけなかったらしくて、自分の研究所に運び込んで助けようとしたんだって。でもね、女の子も犬も、どっちも衰弱がひどくて、もうどうしようもなかったらしいの。それで博士は、何もしないでどっちも死なせるくらいならって、一か八かでその女の子と犬の遺伝子をいじってみたの。詳しいことは全然分からないんだけど、とにかくどうにかして遺伝子を合成させて二つの死にそうな命を一つに合わせたら生き延びることが出来るんじゃないか、って。で、それが成功して、ちょっと犬っぽい女の子が一人出来上がりました。

 それが、あたし。

 だから、生まれた、っていうのも、造られた、っていうのも、正確じゃないよね。でも、あたしは博士に助けられる前のことは何も覚えてないし、あんまり興味もないから、あたしはあの研究所で生まれて、博士はあたしのお父さん、って思うことにしてる。ハナって名前をつけてくれたのも博士だし。博士のことをお父さん、なんて呼んだことは一度もないけどね。

 それが五年くらい前かな。それからあたしはずっと博士の研究所の中で生きてきた。博士は優しかったし、とっても頭がよくてなんでも教えてくれたから、けっこう楽しくやってたんだよ。でもね、勉強だけじゃなくて、社会のルールとか、そういう外の世界のことを教えてもらうようになってから、だんだん研究所の中だけだと満足出来なくなってきちゃったの。だってそうじゃない? 博士は『いつか外に出た時に困らないように』って言って外の世界のことを教えてくれたのに、教えてくれるだけで外に連れてってくれなかったんだもん。それに、博士は忙しいからしょっちゅうどこかにお出かけしてて、あたしは一人でお留守番することが多かったの。研究所はもともと博士一人だけでやってるところだからしかたないんだけど、ずっと寂しいなって思ってたの。でもね、外に出てあたしもお友達が欲しいって博士に頼んだんだけど、『まだ早い』って言って一度も許してくれなかった。

 だからね、それで博士とケンカになっちゃって、嫌になって逃げ出してきたの。犬の姿のほうが小さいし足が速くて捕まらないかと思ってたんだけど、一回町に下りたら、人間に戻りたくても服がなくて戻れないって気付いたの。ばかだよね、ほんとに。帰ろうにも帰り道が分からなくなってたし、なんとなく意地も張ってて帰りたくなかったから、何日か犬の姿のままでずっとうろうろしてた。

 それで死にそうになってたのを助けてくれたのがあなた。だからあたしはあなたにとっても感謝してるんだよ。ほんとだよ。ほんとに、あたしのことを拾ってくれたのがあなたでよかったって思ってる。

 動物ってとっても感受性が強いんだ。だから、昨日犬の姿でいた時に、あなたの優しさがすごく伝わってきた。博士からずっと外の世界は怖い人がいっぱいいるんだーって聞かされてきたけど、この人なら信頼してもいいな、って思ったの。恥ずかしいからあなたが寝ちゃうまで人間の姿に戻れなかったけどね。

 

 

 びっくりさせてごめんね、とハナは小さく笑って、この信じられないような話を締めくくった。

 ハナはマグカップに残った牛乳を飲み干して、明の目を見た。

「ちゃんとお礼を言ってなかったね。助けてくれてありがとう。この恩は、一生かけてお返しさせていただきます」

 そしてぺこりと頭を下げた。

「あ、ああ」

 明はそれしか言うことが出来なかった。あまりにも現実感のない話に、どう反応すればいいのか分からない。クローンだの遺伝子の合成だの、まるっきりサイエンス・フィクションの世界だ。でも、実際に人間が犬に変身するのを目の当たりにしてしまったら、信じないわけにもいかない。とりあえず落ち着こうと、もうすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。

「それで……」

 少し落ち着きを取り戻した明がそう切り出す。

「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ? 行くところはあるのか?」

 ほとんど答えは分かっていたが、明はあえて聞いた。

「行くところなんかないよ。だから、ここにいさせて欲しい。わがままなのは分かってる。でもあたし、もう一人は嫌なの。何週間も一人きりで研究所で博士を待つのはもう嫌なの。初めてあなたの目を見た時、あたしと同じ目だ、って思った。あなたも一人なんでしょ? だからあたしを拾ってくれたんでしょ? お願い、何でもするから。だから……」

 声を震わせ、ハナはそう言った。マグカップを握りしめる手が小刻みに震えている。ハナは俯いていて、明からはその表情を覗うことは出来ない。

 大変なことになってしまったと明は思った。頭の中を様々な不安が巡る。

 金はどうする? 明は伯父の経営する洋食店でアルバイトをしている。そして、伯父は『アルバイト代』と称して高校生のアルバイトにしてはかなりの額を明に払ってくれている。その伯父の援助と、両親の生命保険で、明は現在の生計を立てていた。今の暮らしが裕福であるとはとても言えない。こんな経済状況でもう一人を養っていけるのだろうか。

周囲の人間には何と言って説明する? 事情を知らない人間に知られてしまったら、確実に誤解を招くだろう。親を亡くして以来ずっと一人暮らしをしている明は、近所のうわさ好きの主婦連中のいい話題の種だった。中には、明が何をしても悪しざまにねちっこく陰口を叩くような人もいると、恵子から聞かされたこともあった。

 博士とやらにこの家がばれたらどうする? ハナには優しかったかもしれないけれど、明にまでそうとは限らない。むしろ、重大な秘密を知ってしまった明を始末しようとする可能性だって大いにある。どうやらかなり高度な技術を持っているようだし、もし向こうが明を消そうとしたら、立ち向かうことは出来ないだろう。

 しかしここまで考えてみて、こんなに不安に思っているのは、もうハナの願いを受け入れることを前提にしているからなのだということに気付き、明は苦笑した。最初に犬の姿のハナを抱きかかえた時から、もう心は決まっていたのかもしれない、そう明は思った。

明も、もう一人は嫌だった。

「……まあ、拾った犬の面倒を見るのは、飼い主としての義務だからな。それに、部屋が多すぎて掃除の人手が足りないと思ってたところだったんだ」

 寂しかったと認めるのは、ハナに自分の本心を見透かされていたのと同じことで、それは何だかとても気恥かしかったので、俺も寂しいから一緒に住もう、とは明は言わなかった。

「え……? それって……」

「ここに置いてやる、ってことだ」

 それでもハナにとっては十分なようだった。ハナは伏せていた顔をぱっと上げて、びっくりしたように目を見開いて明を見た。

「ほんと? ほんとにいいのっ?」

「ああ」

「やった――――!」

 その瞬間、ハナはテーブルをぴょんと飛び越えて、対面に座る明に向かって抱きついてきた。その動きはまるで飼い主にじゃれつく子犬そのものだったけれど、

「お、おい!」

イスに座ったままでは、子犬ならまだしも飛びついてくる人間を支えるのはちょっと難しい。明はバランスを崩し、自分に抱きつくハナごとゆっくりと後ろに倒れ、フローリングの床にしたたかに後頭部をぶつけた。

「いっ、てえ……」

「ねえっ、そういえば、あなたの名前をまだ聞いてなかったね! あなたはなんて名前なの?」

 そんなことはお構いなしにハナは明に抱きついたまま顔を上げ、明に尋ねた。

「……俺の名前は明だ。でもお前、その前になあ……」

 じんじんと痛む後頭部をさすりながら明は自分の名前をハナに教えた。ついでに文句の一つも言おうかと思ったけれど、あきら、あきら、と自分に抱きついたまま胸にぐりぐりと頭を押し付けてくるハナを見ると、なんだかどうでもいいような気分になって、まあいいか、と文句を言うのはやめることにした。

 

 

「じゃあ、行ってくるからな。ちゃんと留守番してろよ」

「はーい……」

 時刻は昼過ぎ、明は玄関のドアに手をかけながらハナに念を押した。一時は学校を欠席することも覚悟していた明だったが、やっぱり今日のうちに恵子には事情を説明しておかねばと思い、昼食のあと、午後から登校することに決めた。

「ほんとに、すぐに帰ってくる?」

 半べそをかきながらハナがすがるように見つめてくる。学校に行こうと決めた明をどうにか引きとめようとするハナがあまりにも悲しい顔をするので、それをなだめるのに明はたいそう苦労した。明自身も、ハナの気持ちはよく分かるので、なるべく早く帰ってくると約束したのだが、それでもハナの表情は晴れない。

「すぐに帰るって。お前も高校のシステムは知ってるんだろ? あと何時間かで授業は全部終わる。授業が終わったら、今朝俺を起こしに来た奴を家に連れてきて、事情を説明する」

「明、その女の子と駆け落ちしない?」

「するか」

「……ん。ならいい。行ってらっしゃい」

 ハナはようやく観念し、弱々しく明に向けてばいばいと手を振った。

「ああ、行ってきます」

 明はそっけなく言って玄関のドアを閉めた。ドアを閉めた後で、そういえば久しく誰かに玄関で見送られたことなどなかったと明は気付いた。悪くない。明は素直にそう思えた。冬の太陽の弱い輝きが目にくすぐったい。明はポケットに手をつっこみ、学校への道を歩き出した。朝から元気に鳥が鳴いている。どんな鳥だろうとちょっと気になったけれど、寒いのに無駄な労力は使いたくないと思って、明は空のどこかにいるその鳥を探すことはしなかった。

昼休みの校舎は人にあふれていて、こっそりと忍び込むのにはうってつけだった。室内の暖かい空気に包まれ、明はほっとする。いかに気分がいい時でも、やはり外は寒かった。

「まずは生徒会室だな」

 上履きに履き替えた明は、生徒でごったがえす廊下を歩き出した。恵子と明は同じクラスなので、教室に行けば会うことが出来る。しかし明はまっすぐ教室へは向かわなかった。どうせ恵子はまだ怒り狂っているだろうとは予想しているが、その怒りがどの程度なのか分かりかねるので、まずは状況を確認しておきたかった。そして明には、こういう時に頼りになる友人が一人いた。

「よう」

 短い挨拶とともに、明は生徒会室の戸を開けた。

 明の知る限り、昼休みに生徒会室にいるのは小杉康介だけだ。康介は教室の騒がしさを嫌い、そして少しでも受験勉強に集中するために、生徒会役員になってからはいつも昼休みは生徒会室で過ごすようになっていた。

そして今日も、康介は生徒会室にいた。雑然とした生徒会室の中、ストーブの真ん前に陣取って、今日はサンドイッチを頬張りながら単語帳を開いている。ブリーチをしすぎた金髪が目に痛い。冬なのに肌はこんがりと日焼けしていて、遊び人のような雰囲気を醸し出している。染髪と改造学ランに、難関大学向けの単語帳。あまりにもミスマッチだけれど、その目は真剣だ。

「よお明。重役出勤とは、さすが生徒会長様はやることが違いますなあ。俺みたいな小物にはとても真似出来ねえ」

 明に気付いた康介は、いつも通りの軽薄さで軽口を叩いた。にやにやと笑い、まあ座れよ、と明に促した。

「そんな頭にしてるお前ほどじゃない。それ、またブリーチかけただろ。そのうち頭の中まで真っ白になっちまうぞ」

「お? 分かる? さすが明。恵子もひかりも全然気付かねえの。いやー、スノーホワイトを髪で表現したんだよ。冬っぽくていいだろ?」

「その肌の黒さじゃ誰も冬っぽいなんて思わねえよ」

 明の軽口にも動じず、康介は嬉しそうに自慢する。明は適当に受け流しながら、イスをストーブの前まで移動させ、腰かけた。ストーブから流れる乾いた温風に冷えた手を当て、暖を取る。

「で? 今回はどうしたんだよ。今日の恵子は一味違うぜ」

 やっぱり康介にはお見通しのようだ。康介は単語帳を閉じて明の方を向くと、面白そうに笑った。その声に明を気遣う様子は一切ない。

「まあー、ケンカすんなとは言わねえけどさ、やっぱ生徒会室の中の空気ってのがな、分かるだろ? 生徒会長のお前と副会長の恵子がここにきて破局なんてことになったら、書記の俺とひかりは一体どーすればいいのってことになるだろ?」

「俺と恵子は別に付き合ってるわけじゃない」

「まあまあ、言葉のアヤってやつだよ。お堅いねえー、相変わらず。とりあえず、昼休みが終わる前に会いに行けよ。そのためにわざわざ来たんだろ? 今日の恵子は俺やひかりじゃ手に負えねえ。頼むぜ、会長さん」

 康介は馴れ馴れしく明の肩をぽんと叩くと、また単語帳に向き直ってしまった。お前には敵わないよ、と明は呟く。やっぱり康介に会っておいてよかったと明は思った。軽薄に見えるが頭はいい。康介はそういう人間だった。康介は名門私立高校の入学試験に失敗して、明たちと同じ高校に入学した。普段の態度からは想像もつかないのだけれど、ひとたび真面目に仕事に取り組めば、あっという間に何でも片付けてしまう。もちろん模試でも定期試験でも、校内に康介の敵はいない。大学受験での巻き返しを期して、今はこうして空いた時間を見つけては勉強に励んでいる。

出会ったのは高校に入学してからだったが、無愛想な明とおちゃらけた康介はどうしてか妙に気が合い、以来お互いを親友だと認めるほどの仲の良さになった。多分、親を亡くした自分と、進学校への受験に失敗した康介は、どこか根っこの部分で人には言えない屈託を抱えていて、それがお互いを惹きつけあったのではないかと明は考えている。

「まあ行くだけ行ってみる。ありがとな」

 明は立ち上がり、生徒会室の戸を開けた。廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。康介は単語帳から目を離さずに、ひらひらと手を上げて明の声に答えた。そういう仕草が、なんとも康介らしかった。

教室に入った明に最初に気付いたのは橘ひかりだった。明がひかりに向けて手招きすると、ひかりは自分の席から立ち上がり、教室の入り口まで歩いてきた。教室の中に恵子の姿は見えない。トイレにでも行っているのだろうか。とにかく、それは明にとって好都合だった。

「よう、ひかり」

「ようじゃないでしょ。今度はどうしたの? 恵子、すごく怒ってるよ」

 眼鏡の奥の切れ長の瞳が明をじろりと明を見る。その目ははっきりと、恵子を怒らせた明を咎める色をしている。女子にしては高い身長とハスキーボイスもあいまって、なかなかの迫力だ。生徒会『裏』会長と陰で呼ばれるだけのことはあると、『表』会長の明はその迫力に押されて一歩下がった。

「そんなに怒ってるのか?」

「かなりね。いつもの恵子だったら、怒ってる時でもずーっと明の話ばっかりしてて、こっちからしたらもうごちそうさまって感じなんだけど、今日はただなんにも話さないで黙ってるだけ。もう、あとちょっとで三年生なんだから、いい加減にしてよね」

 ひかりは、明が下がった一歩分の距離を詰めて、じっとりと明を睨んだ。いつもだったら康介と一緒になって二人をからかうひかりが、ちょっと真面目な顔をしている。これはけっこうまずいかもしれないと明は冷や汗を流す。

「待てよ。ちょっとした誤解があっただけなんだ」

 事実なのだけれど、どうにも嘘くさくなってしまう。誤解ねえ、とひかりはまったく信じていないように繰り返す。

もう昼過ぎだし、恵子の怒りもいくらかはましになっているだろう、という淡い期待は、あっけなく崩れ去ってしまった。もう昼休みも残り少ない。どうしたものかと明が考えていると、廊下の向こうから恵子が暗い顔をして歩いてくるのが見えた。俯いているせいか、まだ明がいることには気付いていないようだ。声をかけるべきだろうか。だが朝のことを考えると気軽に声をかけるのもなんだかためらわれる。

「あっ、ひかり。ほら、明が来てるよ」

明がそう迷っているうちに、先にひかりが恵子に話しかけてしまった。

「よ、よう」

 仕方なく明も恵子に挨拶をした。しかし、恵子の反応で、明は事態が予想以上に深刻であることを理解する。

 ひかりに声をかけられた恵子は、俯いた顔を上げ、ひかりに向けて弱々しい笑顔を作ってみせた。だがひかりの隣に明が立っていることに気付いた瞬間、そのかすかな笑顔はすぐに消えてしまった。みるみるうちに恵子の表情が強張っていく。ひかりの手前、どうにか無理やりにでも笑ってみせようとしているのが分かる。恵子はそういう性格だった。その努力のせいでかえって痛々しい顔になっている恵子を見て、明は罪悪感でいっぱいだった。

「ごめんひかり。今日はもう帰るね」

早く謝って誤解を解かなければいけない。明がそう思って話しかけようとした時、恵子が消えそうな声でそう言った。恵子はひかりからも目をそらして教室に入ると、鞄を持って出てきた。

「え? ちょっと、恵子!」

 恵子はひかりとも、もちろん明とも目を合わせないようにして、何も言わずに、逃げるように昇降口の方へ歩いて行ってしまった。こんな時でも恵子は律義に校則を守って廊下を歩いていたので、追いつこうと思えばすぐに追いつけた。でも明には出来なかった。ここまで恵子に明確に拒絶されたのは初めてだった。明はショックでただ呆然と立ちつくすだけだった。

「はあ。もう一度聞くけど、恵子に何したの?」

 先にショックから立ち直ったのはひかりだった。呆れたように息を吐いて、出来の悪い弟でも叱りつけるように明を見る。普段はにやにやと恵子をからかって面白がっているくせに、こういう場面では茶化さずに締めてくる。ひかりが『裏』会長と呼ばれるゆえんであり、そんなひかりに明は頭が上がらない。もちろん副会長である恵子にはそれ以上に逆らえないのだけれど。

 しかしそれでも、今日ばかりは正直に何があったのかを話すわけにもいかない。

「何があったかは、言えない。でも一つだけ言わせてくれ。俺は絶対に恵子を傷つけるようなことはしてない。全部誤解なんだ。ちゃんと恵子と話し合えば必ず解決出来る」

 そのかわりに、明はあくまでも誠実であろうとした。本当のことは言えない。でも嘘も言わない。ひかりの怒りを正面から受け止め、明は答えた。

「……そう。明がそう言うならそうなんだろうね」

 ひかりがふっと肩の力を抜いた。完全に納得してはいないようだが、とりあえずは明の言い分を信じてくれたようだ。

「じゃあほら、早く恵子を追いかけなきゃ。今から走ればすぐ追いつけるでしょ」

「ああ、分かってる。悪いな、いつも」

「ま、恵子は親友だからね。ほら、早く行った行った」

「はいはい」

 それじゃ、とひかりに言い残して、明は廊下を駆け出した。人ごみをすり抜けて玄関まで来ると、予鈴が鳴った。気の早い教師ならもう授業の準備を終えている時間だ。明は教師に見つからないように足を速めて校門を出た。恵子を追いかけることで頭がいっぱいだったので、別れ際にひかりがどんな顔をしていたかも、親友か、とひかりが小さく呟いたのも、明が気付くことはなかった。

校門を出て少ししたところで、明は恵子の背中を見つけた。とぼとぼと歩く後姿が寂しい。寒空の下、なんだかそこだけさらに冷たい風が吹いているみたいだ。それを見てほんのちょっとためらったあと、明はもう一息駆けて、恵子の隣に並んだ。

「恵子。朝のことで話がある」

 恵子は返事をしない。ちらりと明の方を見たが、またすぐに俯いてしまった。

「恵子」

 もう一度明は恵子の名前を呼んだ。今度は少し強く。

「聞きたくないよ」

 恵子は返事の代わりにそう言った。沈んだ声。明を拒絶する声。

「よかったじゃん。あんなにかわいい子、どこで見つけてきたの? あんな子がいるって分かってたら、私だって邪魔しようなんて思わなかったのに」

 表情のない声で恵子は続ける。この話はしたくない、とはっきりと態度で示している。もう話しかけないで、と。

「違うんだ。お前は誤解してる。今から俺の家に来てくれ。見せなきゃいけないものがある」

 明も折れない。折れるわけにはいかない。しかしそれ以上に恵子も頑なだった。

「見るものなんてないよ。それとも何? 改めてかわいい彼女を紹介してくれるつもりなの? もういいよ。これ以上、みじめな思いはしたくない」

 恵子は吐き捨てるように言い、逃げるように帰り道とは違う方向に歩き出した。ここで恵子を行かせるわけにはいかない。明にはもう迷っている時間はなかった。

「恵子」

 明は立ち去ろうとする恵子の肩に手をかけた。恵子はおびえるように肩をびくりと震わせ、立ち止まった。明はもう一度言う。

「誤解なんだ。俺の家に来てくれれば絶対に分かる」

 明は恵子の手首をつかみ、自分の家の方向に向けて強引に歩き始めた。

「ちょ……ちょっと」

 戸惑ったように恵子が抗議の声を上げるけれど、明は構わずどんどんと歩き続ける。恵子はしばらく明の手から逃れようと努力していたが、明が絶対に離そうとしないので、そのうち抵抗するのをやめた。

 二人は無言のまま歩いた。冬の冷たい風が明の頬をなでる。平日なので人通りはほとんどないが、制服姿の二人は昼間の住宅街にはそぐわない。警官か何かに見咎められたら面白くない。明は少しだけ歩く速度を上げた。相変わらず恵子は黙ったままだし、明も、ハナのことを説明しようにも、実物を見せないと信じてもらえないのは承知していたので、何も言えることはなかった。春の気配を見せない風の中、セーラー服越しに恵子の手首を掴む明の左手だけがかすかな温もりを感じていた。

 

 

「今から少し信じられないようなものをお前に見せることになる。でもそれを見ればすべて説明出来る」

 結局自宅の前まで恵子を引っ張ってきた明は、玄関を開ける前にそう宣言した。

「はあ……?」

 帰り道ずっと無言を貫いていた恵子だが、さすがに明のこの言葉には反応した。

「意味が分からないんだけど」

「とにかく、それを見せないと話にならないんだ。しっかり見ていてくれ」

 いまだに仏頂面を崩さない恵子の返事は待たずに、玄関のドアを開ける。そして少し大きな声で、留守番をしているであろうハナを呼んだ。

「ハナ! いるか?」

 家の中からばたばたという慌ただしい音とともに、ハナがリビングから走って出てきた。別にそんなに慌てなくても、と明が思っていると、ハナは走る速度を落とさずに、そのままの勢いで明に抱きついてきた。

「おかえりっ! 早かったねー」

「お、おい」

 不意の一撃を食らった明は、今朝の二の舞は避けようと、なんとかその場に踏みとどまってハナを支えたが、自分のすぐ後ろには恵子がいることを思い出し、結局は今朝の二の舞を踏んでしまったことに気が付いた。猛烈な負の感情が後ろからほとばしるのを感じながら、そうっと振り返ってみると、恵子はさっきまでの仏頂面すら忘れてしまったような無表情になって、睨むでもなくただ抱き合う二人を見ているだけだった。

「あんなに言うから仕方なく来てみれば……。そう。もう彼女なんていう段階はとっくに越えているのね。確かに信じられないようなものが見れたわ」

「ま、待て、恵子! 違うんだ!」

 恵子はひらりと踵を返し、ドアノブに手をかける。明は焦った。大いに焦った。しかしこの状況を見れば誰もがそう思うに決まっている。恵子は明には耳を貸さず、黙って玄関のドアを開けた。本当はもう少し落ち着いた状態でハナの変身を見せようと思っていた明だが、もうそんな猶予はない。

「ハナ! 変身しろ!」

 変身しろ、とは何とも間抜けな指示だ。しかしそれ以外に適切な言葉が見つからない。

幸いにもハナは素直にその指示に従ってくれた。はーい、というお気楽な声とともに、明の腕の中でみるみるとハナの変身が進んでいく。あとはこの様子を恵子に見せるだけなのだが、当の恵子は今まさに玄関から出てドアを閉めようとしているところだったので、明は必死で足を伸ばしてドアの隙間に足を挟み、まるでしつこいセールスマンのようにドアが閉まりきるのを阻止した。

 明のせいでドアを閉めることが出来なかった恵子は、腹立たしそうにドアをもう一度開け、明を怒鳴りつけた。

「何よ! もうほっとい……て……?」

 そこで恵子は初めて見た。そして今朝に引き続き絶句した。明の腕の中にはパーカーにくるまった見たことのない犬がいる。もちろんさっきまで明に抱きついていた少女の姿は消えている。恵子の表情が変わった。その表情を見て、明は首の皮一枚で生き延びたことを確信した。

「今からちゃんと説明する。聞く気になってくれたか?」

 

 

 説明を聞き終わった恵子は、それでもまだ信じられないといった面持ちで、明の隣にちゃっかりと陣取っているハナを見た。ハナは知らない人に見つめられるのが恥ずかしいのか、はにかみながらきょろきょろと交互に明と恵子に目をやっている。

「んー……。まあ事情は分かったわ。早とちりしてごめんね」

「いや、まあしょうがないだろ。こんなこと誰も予想出来ない」

 明は首を振って答えた。恵子はまだ現実を受け止めきれないでいるようだが、それでもきちんと明に謝罪の言葉を口にした。こういうところが恵子のいいところだ。多分明が同じ立場だったなら、こんなに素直に謝ることなんて出来ない。

「それでさ、これからどうするつもりなの? ……まあ聞かなくても分かるけどね」

 恵子は諦めたような、それでいて少し拗ねたような声で明に尋ねた。その目は恨めしそうに明を軽く睨んでいる。

「まあ、さっきも言ったように、こいつには他に行くあてがない。拾った責任もあるし、こいつはしばらく俺の家に置いておく」

 ちゃんと正直にすべて話したのにまだ睨まれるので、明はややたじろいだが、とにかく言うべきことは言った。

 恵子はそれを聞いて、今度こそ完全に諦めた顔で、ふんと鼻を鳴らした。それは悲しいため息に似ていた。

「そう言うと思った。明はそういう人間だからね。愛想は悪い癖に、困ってる人のことは放っておけないっていうか。私が学級委員長を押し付けられそうになってたら、身代りに自分から立候補してくれて、そのままずるずる生徒会長にまでなっちゃうくらいだもん。今さら驚くことでもないか」

「それは今関係ないだろ」

 明が面白くなさそうに口を挟む。

「関係ありますー。それくらい明はお人よしっていうこと。……さてと」

 恵子はずっと強張っていた体をほぐすように大きく伸びをした。体を伸ばしたまま深く呼吸し、視線を明に戻す。その目にはもう戸惑いの色はなかった。

「ハナちゃんがこれからここで暮らすんだったら、いろいろ必要なものが出てくるよね。服とか下着とか。私でよかったらそういうの買うの手伝ってあげるけど?」

 明は恵子にその話をされるまでまったくそういったことに頭が回っていなかった。つくづく勢いだけで決めてしまったなとちょっと心の中で反省する。だから恵子のその提案は明にとって願ってもないことだった。

「ああそうだな。頼むよ」

「じゃあ学校が終わる時間になったら行こっか。あー、すっきりしたらお腹が減ってきちゃった。明のせいでお昼あんまり食べられなかったんだから、何かお詫びに何か作ってよ」

 恵子がちらりと明の様子を覗う。恵子のそれは割と思いきった発言だったのだけれど、明はその言葉の真意に気付くことなく、ただ、しょうがないな、とだけ言って立ち上がり、台所に向かった。早くしてよね、と少々むっとしたような恵子の声が後ろから追いかけてきた。

「はいはい。適当に作るから、それまで二人で仲良くしてろよ」

 冷蔵庫を覗き、残っている野菜とハムでチャーハンを作ることに決める。初対面の二人は仲良くやっているだろうかと少し心配だったが、人懐っこいハナとしっかり者の恵子ならどうにかなるだろうと思い、料理に集中することにした。

 出来上がったチャーハンをリビングに持っていくと、ハナと恵子が楽しそうにおしゃべりに興じていた。ハナはさっそく恵子に懐いたようで、楽しそうに何やらと話している。まるで仲のいい姉に甘える妹のようだ。恵子も、まんざらでもないのか、なんだかいつもよりもお姉さん然としてハナの相手をしている。その姿はまるでさっき初めて会ったようには見えず、明はほっとした。

「ほら、出来たぞ」

 二人とも会話に夢中で明に気付いていなかったので、明は会話を遮るように二人の間にチャーハンの皿を置いた。やっと明に気付いた恵子が、なんだチャーハンか、と不満そうに呟いたが、明が黙って皿を下げようとすると、慌ててお礼を言ってきたので許してやった。いただきます、と恵子が丁寧に手を合わせて食べ始める。

「ずいぶん仲良くなったな」

 明はイスに座りながら二人の会話に混ざる。

「うんっ。もうあたしと恵子は友達だもんねー」

 ハナが嬉しそうに恵子と笑う。初めての女友達が出来てはしゃいでいる姿が微笑ましい。

「そうだ。そういえばまだ聞いてなかったんだけどさ、ハナちゃんはどれくらいここにいる予定なの? それによって買うものとか量とかも変わるけど」

「ああ、確かにそれも考えないといけないな。家出って普通どれくらいかかるもんなんだ?」

「んー……、私も家出なんかしたことないからなー。その博士っていう人が迎えに来るまで、とかじゃない?」

 明と恵子は二人して『どうなんだ?』とハナの顔を見てみた。だが当のハナはきょとんとして、二人の言っていることが飲み込めていないように二人を交互に見返している。何言ってんの二人とも、とハナが聞いてきた。

「いや、ここにしばらくいるのは分かったけど、いつごろ博士のところに帰るのか分からないと買い物の予定が立てられないだろ?」

 明は、ハナが質問の意図を理解出来なかったのかと思い、もう一度説明し直した。しかしそれでもハナのきょとんとした顔は変わらない。それどころか、ハナは明の思いもよらないひと言を口にした。

「あたし、もう博士のところには戻らないよ。だって明のお嫁さんになるんだもん」

 空気が凍りついた気がした。また、まがまがしい気配が吹き出るのを感じて、明は、自分の正面にいる恵子の顔を見ることが出来なかった。

 

 

 珍しく明は恵子に起こされる前に自然に目が覚めた。そして昨日のことをゆっくりと思い返して絶望的な気分になったので、恵子が起こしに来るまでもう一度眠りたいと思ったが、次の瞬間に玄関の鍵が開けられる音がして、それで明はもう観念して起きることにした。

 昨日は本当に大変だった。特にハナの『お嫁さん宣言』直後のあの張りつめた空気は思い出すのも恐ろしい。明はまだあんまりはっきりと働かない頭で、あれは実は夢だったのではないかと考えようとしたが、恵子に起こされたのだろうハナの元気な声が聞こえてきて、やはり現実だったかとため息をついた。

「あら、起きてたんだ。珍しい」

 明が一人で絶望に浸っていると、いつも通り恵子が部屋に入ってきた。ああ、と返事をして起き上がろうとすると、ハナが走ってきて明に飛びつき、ベッドに倒れ込んだ。

「おっはよー!」

 ハナは朝から満面の笑みで、元気に明に抱きついたままベッドの上ではしゃぐ。しかし明はこれを許さない。無理やりハナを引きはがし、ベッドから起き上がる。

「おい、ハナ。昨日の約束をもう忘れたのか?」

 寝起きのかすれた声は、明の無愛想さを普段の三割増しで強調して、ハナを怯えさせた。ハナはばっと明から離れてベッドの上で正座になり、目じりが下がった情けない顔で、上目づかいに明の顔色を覗う。

「忘れてない……」

「じゃあ言ってみろ」

 ハナが怯えているのをいいことに、明は上下関係を分からせるように尊大な態度でハナに命令した。

「そんな言い方しなくても」

さっきまで猛烈な顔で明を睨みつけていたくせに、恵子がまた優しい姉のように小声でハナをかばうが、

「ペットのしつけは最初が肝心だからな。」

明はそれにまったく取り合わない。

 ペットじゃないもん、とハナがぼそりと不満を漏らすが、明のひと睨みでまた小さくなってしまった。

「ほら、昨日決めたルール、言ってみろ」

 明は腕を組み、寝起きのいらいらを隠しもせずに、再びハナに命令した。

 はーい、とハナはしょぼくれた顔で返事をし、指を折って一つずつ数えていく。

「えーと、外の人にばれるといけないから、明の許可なしで外には出ない。家から出る時は犬モードになる。明の家に住ませてもらう代わりに、家事とかの雑用をする。そういう家事は、明と恵子にやり方を教えてもらう。以上」

「お前は俺の嫁じゃないからむやみに抱きついたりしてはいけない、が抜けてるぞ」

 明がハナにとって最も残酷な項目を冷静に付け足す。

「むー。それはやだよー」

 ハナが上目遣いのまま抗議する。

「あたしは明に助けてもらったから明に感謝してるのっ! だからお嫁さんになって一生かけて恩返しするって決めたのっ!」

 ふくれっ面でハナは持論を主張する。しかし明はにべもない。

「感謝してくれるのはいいけど、俺は犬と結婚する気はない」

「んん――――…………」

 ハナは唸りながら俯く。じわじわとハナの目に涙が浮かぶ。ふるふると体を震わせ、子供みたいに顔を真っ赤にして、今にも声を上げて泣き出しそうだ。

「ほ、ほら、とりあえずその話は置いておいて準備しないと、遅刻しちゃうよ。明もあんまり意地悪言わないの」

 さすがに見かねた恵子が助け船を出す。明はまだハナの反抗的な態度に納得していなかったが、昨日無断欠席したということもあり、ハナのことは恵子に任せて朝食の準備を始めることにした。部屋を出る時に、恵子がハナをよしよしと慰めているのが見えたけれど、寝起きで機嫌のよくない明は、それを無視して朝食の準備のために階段をだらだらと下りた。

 恵子の慰めもむなしく、朝食を食べ終わって明と恵子が学校に行く時になっても、ハナの機嫌は直らなかった。眉をハの字にし、しょんぼりと玄関に立ち、心細そうに二人を見送る。

「明、学校で恵子と浮気しないでね」

「しないしない。じゃあ今日は俺バイトがあるから放課後は恵子にいろいろ教われよ」

 明が雑な返事をして先に玄関から出る。

「大丈夫よ、ハナちゃん。じゃあ行ってきます」

 恵子が優しく声をかけ、ハナに手を振る。恵子の言葉で少し安心したのか、ハナは情けない笑顔で二人に手を振った。明はぼんやりとそんな二人の様子を見ていた。そして、恵子が明の方に向き直って歩き始めた時、一人残されたハナがすごく寂しそうな顔をしたのを見てしまった。少し言いすぎたかもしれないと、明は思った。

 

 

 その日アルバイトを終えた明が自宅の玄関のドアを開けると、おいしそうなカレーの香りが鼻をついた。料理が出来ないなんて言っていたくせに、ハナもなかなかやるじゃないかと内心で明は喜び、期待しながらリビングに入る。しかしそこで明が見たのは、犬の姿でクッションに頭だけを突っ込んで震えているハナと、それをどうにか慰めようとする恵子の姿だった。おおかた、失敗を叱られるのが嫌で、ああやって犬に変身して小さくなっているのだろう。明はどういった経緯でことが進んだのかを察し、あえて二人に料理の出来を聞くことはしなかった。

 まさに頭隠して尻隠さずとはこのことで、ハナは前足で器用にクッションを押さえて頭を隠しているけれど、下半身は明から丸見えになっている。犬の状態では知能も犬並みになってしまうのだろうか。明はその光景を見て、そんな素朴な疑問を抱いた。

「あ、おかえり。あのね、ハナちゃんがちょっと失敗してさ、料理は私が作り直したんだけど……。明が帰ってきたらこうなっちゃって」

「やっぱりか……」

 そして恵子により、明の予想は正しかったということが告げられる。明はキッチンを覗き、黒こげになった大量の野菜の残骸が無残にも三角コーナーいっぱいに捨てられているのを確認すると、ハナには聞こえないようにため息をついた。

「ほら、元気出して。明も帰って来たし、ご飯食べよ」

 恵子の根気強い励ましに、ハナはとうとうクッションから頭を出し、物陰に隠れて人間の姿に戻ると、のろのろとキッチンに歩いてきた。これ以上ないほどに落ち込んだ様子で、しょんぼりと明に話しかける。

「ごめんね明。せめて盛りつけくらいはするから、座ってていいよ」

 そしてハナは鍋の前に立ち、危なっかしい手つきでカレーを皿に盛りつけ始めた。盛りつけるのにも慣れていないのか、カレーを鍋からすくって皿に移すまでの間にぽたぽたと垂らしてしまっている。明が特に清潔に気をつけているガス台が、カレーのルーで汚れていく。洋食店でアルバイトをしていて、将来は料理人を目指している明にとって、その汚れは見逃せない。誰が掃除すると思っているんだと、明はハナの手からおたまを奪い取ってやろうかとしたが、

「ちょっと、最後までやらせてあげなさいよ」

「はいはい……」

恵子がひそひそ声で明を止めるので、こうなったら掃除まで全部ハナにやらせようと心に決める。

 散々な夕食だった。ハナはしょぼんとうつむいてひと言も喋らないし、恵子は恵子で、ハナのことを一切信頼していない明にぷりぷり怒っていた。まだ料理を習い始めて一日目のハナの何を信じろと言うのかと、明は納得いかなかったけれど、どうやらそんな理屈は女同士の友情の前には意味をなさないようだった。

 夕食を食べ終えて恵子が帰った後も、ハナはもう一つドジをやらかした。失敗を取り返そうと率先して皿洗いをし始めたまではよかったのだが、

「あっ」

 なんとなく間の抜けたようなハナの声の直後、皿の割れる鋭い音が明の耳に届いた。ハナに片付けを任せたことを後悔しつつ、箒とちり取りを持ってキッチンへ向かう。

「ほら、危ないから離れてろ」

「ご、ごめん……わざとじゃ、わざとじゃないの……」

 おろおろとハナが明を見るが、明はそれを無視して箒で床を掃く。

「あ、あたしも手伝う……」

「いいから離れてろ!」

 ハナはしゃがみ込み、床に散らばった破片を手で拾おうとしたが、明の怒鳴り声にびくりと肩を震わせると、黙って立ち上がり、キッチンを出ていった。

「まったく、素手でやってケガしたらどうすんだ」

 そんな明の呟きは、ハナにはもちろん聞こえない。

 床に破片が残っていないか慎重に確かめて、ついでにハナが汚したガス台もきれいにしてからリビングに戻ると、ハナが泣きそうになりながらなぜだか床に正座していた。反省のつもりらしい。

「ごめんなさい」

 膝の上で小さい手を固く握り、俯いたまま涙交じりの声でハナが言った。泣かないように努力はしているのは見て取れるけれど、残念ながらうまくいっていない。

「あたしっ、なんにもうまく出来なくて、明に迷惑ばっかりかけてっ、お嫁さんになって明に恩返しするって決めたのに、明に嫌われ、嫌われちゃうっ」

 そして話し続けるうちに我慢がきかなくなってしまった。ハナの目から大粒の涙がこぼれ、喋るのもつっかえつっかえになる。

「お、おい……」

 明はとにかく落ち着かせようとして控えめに声をかけたが、ハナはそんな程度では泣きやんでくれない。一度我慢の限界を越えたことで、もう止められなくなってしまっているようだ。おそらくは自分の不甲斐なさに顔をゆがめて、ハナは言葉もなくただしゃくり上げる。まさかこんなに泣いてしまうほど思いつめていたとは。明は焦る。目の前で泣いている女の子の姿なんて、小さい頃の恵子のほかには見たこともない。

どうしようかと迷ったあげく、明は昔の、泣いている女の子を慰めてあげなくちゃ、と思うくらいには純粋だった頃の記憶を掘り返し、とりあえず当時に恵子を泣きやませるためにしていたことをハナにも試してみることにした。明はハナの目の前にしゃがみ、両手でハナの頭をつかんだ。そのまま乱暴に髪をぐしゃぐしゃにする。そうすると恵子はいつもくすぐったがって、いつの間にか泣くのを忘れてしまうのだ。言動がやや幼いハナにも同じ効果があることを祈って、明はひたすらハナの頭をわしわしとなでる。

「え? え?」

 予想もしていない明の行動に、ハナも泣くのを忘れてあっけに取られる。明はなおも乱暴にハナの頭をなでまわす。

「別に俺はそんなに怒ってねえよ。初めてで成功するのも期待してない」

 ひとしきり髪をぐしゃぐしゃにすると、明はまたハナの頭をがっしりつかみ、前を向かせ、無愛想にそう言った。目尻から涙の跡を残したままぽかんとするハナの顔が何だか面白くて明は笑いそうになってしまうが、ここで笑ったら台無しだと思ったので、明はそれをごまかすようにハナに背を向けてキッチンへ戻り、お茶でも入れるかと思った。ずっと愛用している自分の湯のみと、買ったばかりのハナの湯のみを並べてお茶を注ぐ。

「ほら、飲めよ」

 ハナは正座の代わりに尻をすとんと落とした女の子座りになってはいたが、いまだに床の上にいる。明はテーブルの上に湯のみを置き、ハナにイスに座れと促した。ぽかんとしたままのハナも黙ってそれに従った。

 少しの時間、沈黙が二人の間に落ちた。ハナはずっと黙ってお茶をすするばかりだ。あの慰めは効果があったのだろうか。そもそもあれで慰めになったのだろうか。明が何を言えばいいか分からずに気まずい思いをしていると、ハナが急にくすくすと笑いだした。

「明って、女の子を慰めるのが下手だねー」

「なっ……」

 図星をつかれ、明はまた動揺する。ハナは、涙の余韻を残しながらも、おかしそうに笑う。さっきまでの情けない顔が嘘みたいだ。落ち着きのない子犬のように散々明を困らせたくせに、今のハナはどうしてかぐんと大人びて見えて、その笑顔は明一人だけに向けられているのだ。どうにかして慰めようとして、一人であたふたとしていたのが急に恥ずかしくなってきた。顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。ハナはそれを見てまた笑った。

「でもありがとっ。嬉しいなー。さすが、あたしの旦那様だねー」

「うるさい。ペットの粗相の始末は飼い主の責任だっていうだけだ」

 ハナが笑うのをやめないので、明はそっぽを向いて憎まれ口を叩き、湯のみをぐいと傾ける。

「むー。お嫁さんだってばー」

「うるさい」

 さっきまでしおらしく泣いていたかと思えば、もう調子に乗ったことを言い出す。明は、頑張って泣きやませようとしたことをちょっと後悔しつつあった。

「いいもんっ。これから花嫁修業がんばって、明にお嫁さんだって認めてもらうんだから。あっ、そうだ。もうあたし、お風呂の準備はちゃんとしてるんだよ! ほらほらっ。旦那様は一番風呂をどうぞー」

「はいはい。分かった分かった」

 けろっと元気を取り戻したハナに背中を押され、仕方がないので言うとおりに風呂に入ることにした。どんな惨状が広がっているかと内心不安だったけれど、意外にも普段と変わりない風呂場の光景を見て、明はほっと胸をなでおろした。自信たっぷりに言うだけはある。まあこれくらいは出来てくれないとこれからが心配でしょうがない。

「今日は、疲れた……」

 明は行儀悪く、かけ湯もしないでそのまま湯船に飛び込んだ。その瞬間、明は自分が大きなミスを犯したことを知る。そういえばなんとなく違和感はあったのだ。湯船のふたを開けても湯気は上がらないし、風呂場の空気もなんだかいつもより冷たかった。けれど明は疲れていた。そんな違和感はきっと気のせいだろうと思いこもうとしていた。でもやっぱりその嫌な予感は本物で、明はハナの家事能力の低さを甘く見ていたことに今さらながら気付く。湯船の中に満ちていたのは、お湯ではなくて、冷たい水だった。

 明の悲鳴が家じゅうに響いた。

 

 

 明の家に住むようになって二週間が経っても、ハナは料理がなかなか上達しなかったし、よく明の家の物を壊してしまっていた。やる気はあるのだが、どうにも不器用で、しかも今まで家事というものの経験がほとんどないのだから当然のことなのだけれども、ハナにとってそれは大きなショックだった。リビングの掃除をしている最中にうっかり四個目の花瓶を割って以来、これ以上被害が出ることを懸念した明に、明の両親の遺影や遺品が眠る仏間への立ち入りを禁止されてしまったことも、ハナの落ち込みに拍車をかけた。明の両親は、将来の義理の両親ということになるので、たとえそれが故人でも、ハナはちゃんとあいさつしたり、お水をあげたりしたいと思っているのに、明がそれを許してくれない。これはまだ明が自分のことをお嫁さんとして認めてくれていないからなのだなあとハナは考えていた。早く立派に家事を身につけて、家のことは全部任せてもらえるようになりたいと思うけれど、そのせいでかえっていつも焦ってしまい、いつも何かで失敗してしまうのだった。

 明は今日もアルバイトに行っているので、ハナは恵子と一緒に晩ごはんの支度をしている。ハナが味付けに失敗した肉じゃがを、どうにか食べられるくらいにまで味を調えた恵子の姿が、とてもまぶしい。料理だけじゃなく、恵子は背も高いし、目もきりっとしていて、とっても美人だ。恵子を見ていると、何をやっても失敗してしまう自分が情けなくてしょうがなかった。

「ごめんね、恵子。いつも付き合わせちゃって」

 ハナは思わず弱音を漏らす。

「いつも失敗ばっかりだし、あたし、ダメだよね。なんにもお嫁さんらしいこと出来てない。あたしなんかより、恵子のほうがよっぽど……」

 一度言い始めると、止まらない。ハナはエプロンをぎゅっと握りしめてうつむく。恵子とお揃いで買ったエプロンの、かわいい犬の柄がつぶれる。これ以上喋ったらまた涙が出そうで、ハナは口を閉じた。

「もう。そんなこと言わないの」

 恵子はぽんとハナの頭に手を置いた。そのまま優しくなで始める。

「私だって初めから全部出来てたわけじゃないんだよ。最初は、ハナちゃんみたいに失敗ばっかりしてたんだから」

 恵子は恥ずかしそうに笑った。それから恵子は、その頃を懐かしむように目を細めて窓の外を見た。

「ねえ、まだ明も帰って来ないし、ちょっと明の昔の話でもしよっか。どうせあいつ、ハナちゃんに何も話してないでしょ?」

 それは確かにハナにとって魅力的な提案だった。明ときたら、本当に何もハナに話してくれていないのだ。話すことといえば料理の味付けのコツや、掃除の仕方くらいのもので、学校のことも、アルバイトのことも、もちろん両親のことも、明はなかなか教えてくれようとはしない。もちろん料理や掃除のことだって大切だけど、やっぱりそろそろ明個人のことも知っていきたい。だからハナは恵子のその言葉に勢いよく頷いた。

「じゃあ、私がお菓子の準備するから、ハナちゃんは紅茶入れてくれる? この前ハナちゃんが入れてくれた紅茶、また飲みたいな」

 明の家にはそんな本格的なティーセットなんかない。だから紅茶といっても安物のティーバッグにお湯を注ぐだけだ。誰が入れたって味に大差があるわけでもないのに、恵子はそれを褒めてくれた。大したことじゃなくても、ハナにとってはちゃんと出来る数少ないことなのだ。そういう恵子の優しさが、ハナは嬉しかった。

 出来る限り丁寧に入れた紅茶を、こぼさないように慎重にテーブルまで運ぶと、恵子はにっこりと笑ってくれた。それだけのことで、ハナは何だか自分が大仕事をやってのけたような気分になる。

 二人向かい合って座る。女の子だけの秘密のお話、というやつみたいだとハナは思い、わくわくする。恵子は、じゃあどこから話そっかな、といつかのハナのようにちょっと考えて、ゆっくりと紅茶を一口飲んで、それから話し始めた。

「明が家事出来るのは、お父さんが料理人だったのと、お母さんの体が弱かったのが理由になるのかな。明は無愛想だけどお父さんのこともお母さんのことも大好きだったし、ああ見えて優しいところもあるから、お父さんに憧れて料理を始めて、お母さんの負担にならないようになるべく家のことも自分でやって、って感じで家事をやってたんだ。お母さんはよく入院とかしてて、家に明一人だけってこともよくあったから、必要に迫られて、っていうのもあったと思うけど。まあそんなふうに、それなりに楽しくやってたんだ。あのころの明は可愛かったよ。父さんみたいな料理人になるんだー、って言って、よく私に試食させてくれたりして。まあ、ケンカもしょっちゅうしてたんだけど」

 でもね、と恵子はそこで言いづらそうに口ごもった。恵子はどこを見ればいいか分からないように視線を落とす。前髪がはらりと恵子の顔に影を作った。

ハナはその悲しげな顔を見て、恵子はこれから明の両親が亡くなった話をするつもりなんだな、と思った。恵子は黙ったままクッキーを一枚手に取り、小さくかじった。ハナも何も言わないでクッキーを食べた。恵子の食べる速度があんまり遅いので、まるで、クッキーがなくなったらまた話しださないといけなくなるのを恐れているようにハナには思われた。もしもどうしても恵子が話したくないんだったら無理に話さなくてもいいよ、と言おうとした時、恵子はまたゆっくりと紅茶を一口飲み、覚悟が決まったようにハナの目を見た。その目にはもうためらいはなかった。

「でもね、私たちが中学二年の冬、ちょうど今くらいかな……。交通事故で二人とも亡くなったの。いつも通り明のお父さんが、お母さんを病院まで送っていく時に、その途中で……」

「そんな……」

 ハナは思わず声を出してしまった。そんなのはあんまりだと思った。

「それでね、明のことは明の伯父さん夫婦が預かるっていう話になったんだけど、高校を卒業するまではどうしてもこの家に住みたい、って明が伯父さん夫婦に頼んだの。何でも全部一人でやるから、って。明はめったにわがままなんて言わない子だったから、それで伯父さん夫婦も折れてね、週に何回か伯父さんのお店を手伝うっていう条件で、結局ここに住むことになったんだ」

「そうだったんだ……」

 明にそんな辛い過去があったなんて、今の明しか知らないハナにとっては信じられなかった。いつもの明はそんな悲しいところなんか全然見せないのに。

「私が家事をしようって思ったのはその頃の明が見てられなかったからなんだ。あの頃の明は、親がどっちもいなくなったっていうのに泣きもしないでさ、本当にただ生きてるだけって感じだった。今までケンカしてたのが嘘みたいに、何言っても言い返してこなくなって……。学校に遅刻してきたと思えば一人でぼーっとしてて、私、このまま放っておいたら明もいなくなっちゃうような気がして、家事も何も出来ないくせに、私が明の家事を手伝う、って言って無理やりここに通うことにしたの。私も、最初はほんとにハナちゃんみたいに失敗ばっかりだったんだよ。あの頃の明は、私には全然怒ったりしてくれなかったけど」

 失敗しても怒らないなんて。明はいつもハナが何かしでかすたびに怒っては、晩ごはんをドッグフードにするとか言ってハナを脅すのに。ハナは驚きに目を丸めて恵子を見た。

「ん? ああ。明が怒らないっていうのがハナちゃんには意外だったかもね。でも、本当だよ。昔からだけど、明はあんまり感情を外に出さないから。お父さんとお母さんが亡くなってからは、特に。だから、高校でもほとんど仲のいい友達とかもいないんだ」

「え? でも明は生徒会長っていうのをやってるんでしょ? そういうのって、友達がいっぱいいて、人望がある人がなるんじゃないの?」

 ハナは学校に行ったことがないので、生徒会長というものが実際はどういうものかよく分からない。けれど、一応は博士に社会の仕組みというものを教わっていたので、なんとなくのイメージは頭の中に持っていた。でも、ハナの頭の中の生徒会長というものへのイメージと、明の性格は、あまりにもかけ離れていて、ハナは恵子の話を遮って質問した。

「んー。まあイメージとしてはそうかもね。でも、実際は別にそうじゃないの。前にもちょっとだけ話したけど、私、一年の時に、意地悪な男子に学級委員長を押し付けられそうになったの。それで他に立候補してくれる人もいないし、私に決まりそうになった時に、明が委員長に立候補してくれたの」

 おお、あの明が。ハナはまた素直に驚く。そういったものに自ら立候補するようにはとても見えないのに。

「うん。私もすごくびっくりした。でも嬉しかったな。そういう優しいところは変わってないんだなって思って」

 恵子は少し顔を赤くして、遠い目をした。その目はハナの知らない明を思っている目で、恵子がどんな明を思い出しているのか、ハナには分からない。

「それでそれで?」

 それがなんだか面白くなくて、ハナは続きをせがむ。

「結局その時は明が委員長で私が副委員長に決まったんだけど、一度委員長みたいな仕事をやったら、前もやってて勝手が分かるだろうから、っていうことでその次もやらされちゃうんだよね。そんなふうにずるずるクラスの雑用をやってるうちに、いつのまにか生徒会の庶務みたいな仕事もやるようになって、そしたらまた、生徒会関係の仕事してたんだし、ってことで私も明も生徒会役員に立候補することになっちゃった。うちの高校は小さいから、そう何人も立候補する人なんていないんだよね。で、私たちの時は、会長に立候補したのは明一人だけ。他の生徒はみんな、自分じゃなきゃ誰でもいい、っていう考えだから、見事に明が生徒会長に当選したの。明が生徒会長なんてやってるのは、だからそういうわけ」

 恵子は苦笑して、またクッキーを一枚取った。今度は大きめの口で、さっきよりはリラックスしたように食べる。

「その時も、明は特に怒ったりはしなかった。しょうがないか、っていう感じで。明はハナちゃんが来てから変わったよ。絶対。明がああやってガミガミ怒るのは、ハナちゃんに対してだけだもん。ハナちゃんが明を変えたんだと思う。だから」

 だから、私はハナちゃんがうらやましい、と最後に恵子はちょっと寂しそうに笑った。寂しそうな顔をしているのは、やっぱり恵子が昔の明を知っていることの何よりの証明で、ハナは少しだけ、いいなあなんて思ってしまうのだった。

「……あれ? なんで私たち、こんな話をしてたんだっけ」

「うーん……、あたしも忘れちゃったー」

 ハナを慰めるために始まった明の昔話だったが、二人とも話に夢中になるあまり、どうして始めたのか忘れてしまっていた。それがなんだかおかしくって、ハナは恵子と一緒になってけらけらと笑った。

 ハナは別に理由はどうでもいいと思っていた。自分の知らない明の話を聞けただけで満足だった。

「でも、ありがとう。明の話、聞けてよかった」

 だからハナはちゃんと恵子にお礼を言った。自分の知らない明をたくさん知っている恵子。恵子はハナのことをうらやましいと言ったけれど、やっぱりハナは恵子がうらやましかった。多分、明のことを一番よく分かっているのは恵子だし、恵子のことを一番よく分かっているのも明だ。それを思うとハナはちょっと切ない気持ちになるのだった。

「ねえねえ、今度はさ、ハナちゃんの話を聞かせてよ。博士っていう人のこととか、研究所のこととか」

 ハナがセンチメンタルに浸りながら紅茶をすすっていると、恵子が身を乗り出してハナの顔を覗き込んできた。長い話が終わってすっきりした表情だ。恵子の興味津々な様子を見て、自分の切ない気持ちが恵子にはばれていないようだと、ハナはほっとした。ほっとしたついでに、何から話そうかな、と思案顔を作る。明は自分の話もしないし、ハナのこともほとんど聞いてこない。初めて出会って以来はハナの境遇のことについての話は一切していない。あんまり自分のことをぺらぺらと話すものではないと分かってはいるけれど、かといって何にも聞かれないのもそれはそれで物足りない。

ハナは、明に話したように、とりあえず自分の体のことから話し始めた。二人の会話は、明が帰って来るまでずっと続いた。いろんなことを話した。また恵子と仲良くなれて、ハナは嬉しかった。

 

 

難しい顔で料理を口にする明を、ハナと恵子は二人して見つめる。今日ハナが作ったのは、いつか大失敗した肉じゃがだった。ハナは自信と不安の入り混じった目で明を見つめている。

「砂糖が多すぎだし、じゃがいもは煮込みすぎだ。でもまあ、食えない味ではない」

 その言葉を聞いてハナは恵子と抱き合って喜んだ。ハナが明の家に来てから一ヶ月、ハナは初めて明から合格点をもらった。

「やったっ! ありがとう恵子!」

「おめでとう、ハナちゃん!」

 二人は明そっちのけで喜びを分かち合っている。ただ教える通りに料理を作るだけで一ヶ月。これから先のことが思いやられるけれど、とにかくハナにとっては大きな一歩目だ。失敗した材料を処分する手間がなくなるだけでもだいぶありがたい。恵子に抱えられてくるくると回るハナを見ながら、明はやれやれと一息ついた。

「じゃ、うまく出来たところで早く食おうぜ。今日は客が多くて疲れた」

 そのままリビングの自分の定位置に座り、明はまだ喜びの踊りを続ける二人に声をかける。

「明、お腹減ってるの?」

「ああ。今まで働いてたんだ。早くしてくれ」

 ハナは踊るのをやめ、明に聞いた。明は空腹もあって、若干いらいらしながら答える。

「じゃあー、明はあたしが作った料理が食べたいんだね? あたしが愛情込めて作った肉じゃがが食べたいんだねー?」

調子に乗ったハナがなんとも憎らしい笑顔で明の顔を覗き込む。そうだ。こいつはそういう奴だった。泣き虫なくせにすぐ調子に乗る。明は全然ハナのことを褒めないので忘れていたが、恵子におだてられて調子に乗ったハナは何度か見てきた。今までは特に自分に被害はないので放っておいたけれど、よほど嬉しかったのだろう、今日のハナはいつにも増して鬱陶しい。これはちゃんとしつけてやらねばと明は決心した。

「しょうがないなー。明がどうしても食べたいって言うなら、愛情たっぷりの肉じゃがを食べさせてあげるよー……いたっ!」

「インスタントラーメンが棚に入ってるよな。めんどくさいし、今日の晩飯はそれでいいか」

 だらしない笑顔で明の目の前に迫っていたハナの頭にチョップを叩きこみ、明はのっそりと立ち上がった。慌ててハナが明を止める。

「わー、ごめんなさい、もう調子に乗らないから、あたしの料理食べてー」

「ちょっと明! なんでそうやって意地悪するの!」

 当然ながら恵子もハナの味方をする。恵子がいなければもっと厳しくしたのに。明は少し不満を持ちながら、それでも、はいはい、とおとなしく自分の席に戻った。

「……ばーか」

おとなしく言うことを聞いたというのに、なぜだか恵子は不満そうに明を罵る。

明は女心の難しさというやつにちょっとだけ思いを馳せてみたが、考えたところで人の心なんか分かるわけがないと思ったので、おとなしく料理が運ばれてくるのを待つことにした。

 明に認められたこともあるし、ちゃんと食べられる物を作った、という満足感もあるのだろう、ハナはその日ずっとご機嫌だった。泣かれているよりはずっといいし、ハナが嬉しそうに恵子に話しかけているうちに恵子の機嫌も直ったようだったので、明にとっては万々歳だった。

「これであたしもまた一歩お嫁さんに近づいたねー」

 恵子が帰ったあともハナのご機嫌は続いた。るんるんと謎の動きで踊りながら、ハナはまたにこにこと明に話しかける。

「うるさい。俺はペットとは結婚しない。だいたい、ようやく食える物を作れるようになったくらいで調子に乗るな」

 嬉しいのは分かったけれど、そういつまでも調子に乗っていられてはたまらない。恵子が帰ってしまうと、ハナの勢いは全部明に向く。アルバイト帰りで疲れているのに、ちょろちょろといつまでもまとわりつかれるとろくに休めもしない。分かってる分かってる、と全然分かっていないようにハナが返事をする。結局、ハナの上機嫌は寝るまでそのままで、明日起きてもずっと変わらないのではないかと明がちょっと不安に思うほどだった。

 そして、その不安は見事に的中してしまう。

「今日はバイトがないから早く帰って来るんだよねっ?」

「ああ。だからおとなしくしてろよ」

「はーい。じゃあ行ってらっしゃい!」

ハナの上機嫌は一晩だっても変わらず、二人を起こしに来た恵子を驚かせた。自信満々に手を振るハナだけれど、その自信満々っぷりがかえって明を心配にさせる。

「まったく、昨日からずっとあの調子だ」

 恵子と二人並んで歩きながら、明はぶつぶつ文句を言う。寒さのせいでいつもよりも無愛想さが増している。

「それだけ嬉しかったってことでしょ。ハナちゃん頑張ってたもん」

 どうやら恵子はハナの味方のようだ。それもそうだ。少なくとも料理に関しては、明よりも恵子の方が熱心に教えていた。出来の悪い子ほどかわいいとも言うし、やっぱりなかなかうまく出来ないハナをずっと見守ってきた恵子もハナの成功を喜んでいるんだなと思い、恵子がいてくれてよかったと明は実感した。

「それも恵子のお陰だよ。悪いな。朝だけじゃなくて、夜までしょっちゅう家に来させるようになって。ほんとに助かってる」

 それは明としては特に他意のないただの感謝の言葉だった。でも恵子はどうしてかその場に立ち止まって、すごく珍しい物でも見たような目で明を見返した。

「おい、どうしたんだよ」

 つられて明も立ち止まる。明はさっさと学校にたどり着きたいと思っているのに、恵子がなかなか答えないので、寒さにぶるりと震えた。

「明がそんなこと言うの、めったにないから、ちょっとびっくりしちゃって」

恵子は少し顔を赤くしてそう答えた。明は恵子の顔が赤いことに気付いたけれど、それは冷たい風のせいだと思った。今日はそんなに寒いのだろうかとポケットから手を出して自分の頬を触り、予想以上に冷たかったのですぐにまた手をポケットにしまった。少しでも風が体に当たらないように猫背になる。

「そうか?」

「そうだよ」

 木枯らしも気にしないで、恵子はぴょんぴょんと跳ねるように歩く。それにつられて恵子の短いポニーテールも小さく揺れる。恵子が軽い足取りで少し先に行ってしまったので、明がそのポニーテールを後ろから眺めていると、恵子が後ろを振り返って早く早くと明を急かす。恵子は普段から割と活発な性格だけれど、それでも今朝はいやに元気がいいと明は思った。前に目を向けると足を止めて明を待っている恵子がいる。明は歩く速度はそのままでゆっくりと恵子に追いついた。もう、と恵子が楽しそうに不満を漏らし、明に合わせてまた歩き始める。やっぱり恵子はご機嫌みたいだ。何かいいことでもあったのだろうかと明はちょっと気になった。でも、わざわざ聞くほどのことでもないと思って、黙っていることにした。機嫌がいいにこしたことはない。恵子がなにやらふんふんと鼻歌を歌っている。少し前に流行った曲だというのは明も分かったけれど、結局学校に着くまでそのタイトルを思い出すことは出来なかった。どこか遠くで鳥の鳴き声が響いた。聞き覚えのある鳴き声だけど、その姿はいつも見つからない。明は顔を上げて空を見渡してみたけれど、太陽の光がまぶしくて、すぐに探すのをやめた。

 

 

 その日の放課後、明はなんだか不機嫌そうな恵子と一緒に歩いていた。明の家に帰る途中だ。

ハナの浮かれっぷりがどうも不安で、調子に乗って失敗してめそめそ泣いてやしないかと心配した明は、どこにも寄り道せずに早めに帰ることにした。その時に、どうせだったらと思って恵子も誘ってみたのだけど、朝はあんなに元気だったのに、今の恵子は少し怒っているように見える。何か他に用事があったのだろうかと明は思う。今日の放課後空いてるかと聞いた時には、嬉しそうに何も予定はないと言っていたのに。いつもこうだ。思いもかけないことで、恵子は笑ったり怒ったりする。長いこと幼馴染をやっているけれど、明にはてんで見当がつかない。とにかく触らぬ神にたたりなしと、明はなるべく恵子を刺激しないように黙って家路を歩く。

「ただいま」

 玄関を開けて、明は家の中にいるであろうハナに声をかけた。おじゃまします、と恵子もそれに続く。

ところが、家の中からハナの返事は聞こえてこなかった。明は、そして多分恵子も、いつもみたいにハナが勢いよく出迎えてくれるものだと思っていたので、なんだか拍子抜けしてお互い顔を見合わせた。昼寝でもしているのかと思い、明がハナの名前を呼ぶと、少し間をおいて小さくはーいと声が返ってきた。左手をぶらぶらさせて、右手で二人に手を振りながら、ハナが玄関まで出てきた。なんだいるじゃないかと、明はちょっとほっとする。

「あのね、もうすぐ帰ってくる頃だと思ってね、紅茶の準備してたんだよ。今、恵子の分も準備するね」

 明の嫌な予感とは裏腹に、部屋の様子はいつもと変わりなかった。どこにもおかしなところはない。ハナがいつもよりもおとなしい気がしたけれど、さすがにハナも朝からはしゃいでいるうちに疲れてしまったのだろう。

「ほら、ハナちゃんだっていつも失敗するわけじゃないんだから」

 恵子が小声で、どこか誇らしげにそう言った。明はなんとなく何かが変だと思いながらも、それが何かは分からないので、黙ってハナが紅茶を入れてくれるのを待つことにした。

「はい、恵子」

「ありがとう。ああ、あったかい」

 明はやっぱり今日のハナはどこかおかしいと思っていたので、恵子に紅茶のカップを渡すハナの動きをぼんやりと見ていた。まず表情がおかしい。ハナは泣いている時以外はだいたいいつも機嫌がいいほうなので、うるさくしていなくても割とにこにこしているのに、今はなんだか無理をしているような顔だ。恵子は気付いていないようだけど、明には分かった。だてに一ヶ月も一緒に暮らしていないのだ。それに、手つきも慎重すぎる。いつもは豪快にというか雑に物を扱っていて、そのせいでいろいろと失敗するのだけど、今日のハナは変に慎重というか、動きがゆっくりとしすぎているように思われた。

 これは留守番中に何かを壊してしまって、それを隠しているんだろうと明は当たりをつけて、またハナをじっと見てみた。ハナは何かやましいことがあると、ちらちらとそちらを気にする癖があった。そういう時は正直に言えと何度かハナを叱ったのだが、まだその癖は直っていない。今回もそれで何か分かると明は踏んでいた。でも、明のその予想は外れて、ハナは特に後ろめたくどこかを気にするといったこともなく、ただ淡々と茶菓子の準備をしている。

 じゃあどこがおかしいのだろう。明は首を傾げた。ハナが茶菓子の乗ったお盆を右手で持ちながらまたゆっくりとリビングに戻って来た。左手は力なくだらんと下がったままだ。おっとっと、とバランスを崩しながらも丁寧にそれをテーブルに置くハナを見て、明はやっと違和感の正体に気がついた。ハナはまだ左手をぶらぶらとさせている。どうしてもっと早く気がつかなかったのだろうかと明は自分に怒りを感じた。そして、そのことを隠そうとしていたハナにも。

「おい」

 明は座ろうとしていたハナを乱暴に呼んだ。

「腕を見せてみろ」

 ハナはぎくりとする。それからごまかすようにうっすらと笑った。その時にさりげなく左腕をちょっと体の後ろに隠したのを明は見逃さなかった。明はハナのその作り物みたいな笑顔がすごく嫌だと思った。

「えー、どうしたの急に? そんなことよりもさっ、せっかく準備したんだからお菓子食べようよー」

 ハナはあくまでも隠し通そうとしているみたいだ。それはさらに明を怒らせた。明は立ち上がって、ハナの左手をつかんだ。

「ちょっと、どうしたのよいきなり」

 恵子が声を上げたが、明はそれを無視した。ハナも観念したように、何も抵抗はしなかった。ハナのセーターの袖をつかみ、明は慎重にそれをめくり上げた。そこにはまだ新しい、痛々しい火傷があった。けっこうな広範囲にわたって、赤くはれ上がっている。

「ハナちゃん……どうしたのこれ? 早く冷やさないと」

 恵子が慌ててハナをキッチンに連れて行き、水道でハナの腕を冷やし始めた。ポットのお湯をうっかり腕にこぼしたのだろう。それほどひどいわけではなさそうではあるが、それでもかなり痛いはずだ。どうしてそんなにして隠し通そうとしたのだろうかと思う。叱られるとでも思ったのだろうか。確かに明はハナのことをよく叱る。反抗的な態度だったら泣かす時さえある。しかしそれでも、ハナ自身が傷ついたことを叱るつもりはない。自分はハナが火傷したことにさえ怒るような奴だと思われているのかと思うと、また明は怒りが増すようだった。

「どうして黙ってた」

 明はハナに聞いた。なるべく静かに話そうと努力したけれど、やっぱり声に棘が混じってしまう。

「……あのね」

 少しためらってから、ハナが話し出す。

「今日は明がバイトお休みの日でしょ? いっつも明に迷惑かけてるから、お返しに今日は紅茶を準備して待ってようって思ったの。あたし、まだ、紅茶くらいしかちゃんと出来ないから、恵子がおいしいって言ってくれた紅茶を、明にも飲んでもらいたかったの。でも、そしたらまた失敗して、火傷しちゃって……」

 そうじゃなくて、どうして黙ってたんだ。と明はハナの言葉を遮ることも出来た。でも、ハナが今話そうとしていることはきっと大事なことで、それはちゃんと聞いてやらないといけないことなのだと明は思ったので、何も言わないでハナの俯いた顔をじっと見つめた。

「せっかくバイトお休みなのに、あたしがこんなだって明にばれたら、明はゆっくり出来ないから、だから我慢してよう、って……」

 泣き虫なハナは、だけど、頑張って泣かないようにこらえていた。大きな瞳がうるうると揺れる。それもやっぱり、明に迷惑をかけないためなのだろう。でも、口をきゅっと結んで目を伏せるその姿は、そんなのを見るくらいなら痛い痛いと泣いて騒いでくれたほうがよっぽどいいと明に思わせるほど、悲しげに見えた。

 恵子がハナの頭を優しくなでる。恵子にも言葉はない。

 明はさっきまで抱いていたハナへの怒りが消えていくのを感じた。代わりに、ひどく情けない気持ちになった。ハナは自分のことを気遣ってくれていたのに、そんなハナを疑った自分が恥ずかしかった。何も、言えることはなかった。だから明は何も言わずに薬箱から火傷用の塗り薬を取り出し、ハナに渡した。

「もう十分冷やしただろ。これ塗れよ。俺も料理してる時よく火傷するし、それはよく効くやつだから。……だから、早くそれ塗って、紅茶飲むぞ」

 ハナは渡された薬をぽかんと見つめている。もっと何か言われるものだと思っていたのかもしれない。もしかしたら、本当は明に叱られると思っていたのかもしれない。

「もう、素直じゃないんだから」

 ぷっと吹き出して、恵子がおかしそうに笑い出した。明が何を考えたのか、お見通しなんだろう。明が怒った理由も、それから恥ずかしく思ったことも。明をからかうように恵子はくすくすと笑い続ける。ハナの火傷には気が付かなかったくせに。と明は面白くない。

「ありがとっ、明」

 ハナも、そんな恵子を見てちょっと元気になったようで、にっこりと明に笑顔を向けた。もう、その瞳はうるんではいなかった。明は何だかずいぶん久しぶりにハナの笑顔を見たような気がした。

 また全員が席に着いた頃にはすっかり紅茶は冷めてしまっていたけれど、三人ともそれをゆっくり飲んだ。渋みが強くて、変な味がした。自分の今の気分に似ているようだと明は思った。

やっぱり入れたてのおいしいのを飲んで欲しかったのだろうか、ハナはちょっと不満げだったけれど、

「また今度、入れたてを飲ませてね」

 帰り際の恵子の言葉で気をよくして、嬉しそうに張り切っていた。

「今度は絶対に上手にやるからっ! またねー」

ハナは念を押すようにそう言って、恵子に大きく手を振った。恵子も小さく手を振り返す。ゆっくりと小さくなっていく恵子の後姿と伸びる影が、きれいだった。

手を振り続けていたハナは、恵子が角を曲がって見えなくなると静かにその手をおろし、

「明ぁ、痛い」

涙目で救いを求めるように明を見た。薬を塗ってからは妙に元気になっていたな、とは明も気付いていた。やっぱり恵子に心配をかけないように無理していたみたいだ。さっきまでの笑顔はどこへやら、眉をへにょんと下げた情けない顔をしている。

「火傷は痛いもんだ。明日病院に連れてってやるから我慢しろ」

 こいつは保険証がないから高くつくな、と明がぼそりと呟くと、ハナはますます申し訳なさそうに縮こまり、ごめんなさいと小さく言った。

「動物病院に行くようなもんだ。気にするな。ほら、寒いからさっさと中に入るぞ」

 ハナはまたもペット扱いされてむっとしたが、明に急かされたので何も言わずに家の中に戻った。

 ハナはその日ずっと、痛い痛いと言ってはいつも以上に明に甘えてこようとした。普段は全然相手をしてくれない明も、今日はしかたなく構ってくれるので、ここぞとばかりに甘え倒すつもりのようだ。

「明っ、あたし、火傷が痛くて一人でご飯食べれない! あーんして!」

 夕食時、またハナが調子に乗ったことを言い出した。いつもなら冷たくあしらうところだ。でも明はどうしてか、今日くらいならいいかという気分だった。しょうがないな、とハナの隣に座り、スプーンで今日の夕食のシチューをすくってやって、ハナの口の前に突き出した。

「ほら、食え」

ところがハナはそれを食べなかった。あっけにとられたように目の前のスプーンと明を交互に見る。 

「あれ? どうしたの明。『手が使えないなら床で犬みたいに食うか?』とか言わないの?」

「うるさい。そうしたかったらそうしてもいいんだぞ」

 当然の疑問を投げかけてきたハナに、明は照れもあっていつもより無愛想にそう答えた。料理を教える時なんかも同じように味見をさせたりしているのに、こうして食卓でやるとなると妙に恥ずかしいのだ。

「うわっ、おとなしく食べます」

 慌ててハナは目の前に差し出されたスプーンをくわえた。頬を緩めて、いつもよりおいしい、とひと言感想を言った。ハナは本当においしそうにものを食べる。

「でも珍しいねっ、明が優しいなんて。何かいいことあったのー?」

 嬉しそうに、でも不思議そうにハナが明に聞いた。何か、と言われても明自身も分からない。ハナが来てからどこか変わってしまったみたいだと明は思った。その変化を自然に受け入れている自分にも驚いた。少しずつ、ハナと一緒にいることに慣れてきたようだ。ハナに心を許し始めている自分に気がついて、明は少し両親がいた頃の生活を思い出した。やっぱり誰かと一緒に食べる食事はおいしい。そんな当たり前のことを、久しぶりに思った。

「ねー明、早く早くー」

 はいはい、と次の一口を催促するハナに答え、スプーンでシチューをすくう。人に食べさせてやるというのは思いのほか難しいもので、いつもよりもずいぶんと時間をかけて二人は夕食をたいらげた。ゆっくりと、夜が深くなっていた。

 

 

「最近のお前らはどうも怪しい」

 ある日の昼休み、珍しく康介が教室に残っているかと思うと、明の目の前に立ちふさがり、いきなりそんなことを言い出した。疑惑の目つきで、明と、そして何も知らずにこちらに歩いてきた恵子を交互に見やる。

「はあ? いきなり何言ってるんだよ」

「何言ってるかー、じゃねえよ。お前と恵子のことだよ。最近お前ら二人してこそこそしやがって。付き合いだしたならそう言えよ。水臭い」

 うんうん、と康介の後ろでひかりも大きく頷く。

「ちょっと康介、変なこと言わないでよ」

 恵子は慌てて否定する。しかし康介はそれを無視して続ける。

「いーや、変なことじゃないね。ちゃんとした根拠があるんだ」

 康介は腕を組み、もったいぶった口調でもって意味ありげに口の端だけで笑ってみせた。ずいぶんときざな表情だったけれど、それが実に康介に似合う。着ているのが学生服でなかったら、もっと様になっていただろう。

「何だよその根拠って」

「よくぞ聞いてくれました」

明はたまらずに質問してしまう。康介は待ってましたとばかりに大げさに手を広げた。まるでアメリカのテレビショーの司会者みたいだ。しかしそこで、暴走気味の康介を抑えて、ひかりが口を開く。

「康介、あんまり大げさに言わないでよ。ややこしい。根拠っていうほどのものはないよ。ただ、ちょっと前に二人がケンカしたでしょ? その後から妙に二人で内緒話みたいなことするようになったから、何かあったのかなって」

「雨降って地固まるってやつで、そのままどーんとでかい進展でもあったじゃねえのかー? って俺達で話してたんだよ」

 康介が、またも大きな手ぶりでひかりの言葉を遮って最後を締めた。もう、とひかりがその切れ長の目で康介を睨む。康介はそれを気にも留めない様子で、それでどうなんだよ、と明と恵子に詰め寄って来る。

 これはよくないと明は思った。別に恵子との間にやましいことなど何もないけれど、知られたらまずい秘密は実際にあるのだ。康介とひかりを信用していないわけではないけれど、あんまり大勢にハナのことを知られると困ったことになるかもしれない。どうやってごまかしたものかと横を見てみると、恵子が柄にもなく顔を真っ赤にして照れている。いつもはきはきとものを言う恵子の堂々たる姿はどこにもなかった。

「そ、そんな、私と明はただの幼馴染っていうだけで、別に何も……」

 もじもじと口ごもる恵子を見て、康介がさらに畳みかける。

「なーんか怪しい反応だねえ。ほらほら、正直に言えば楽になるぜー?」

「最初はみんなそうやって言うんだよね」

 ひかりまでにやにやと恵子をからかう。

「やめてよ、ひかりまで」

恵子は恥ずかしそうに、でもその割にまんざらでもないように抵抗する。喋り方はぶっきらぼうだが、口元がだらしなく緩んでいる。これでは説得力もなにもない。

「おいおい、本当に何もないって言ってるだろ。恵子もちゃんと否定しろよ」

 今の恵子は役に立たないので、このまま追及されるとまずいと思い、とにかく明は会話を打ち切ろうとした。ハナのことは知られるわけにはいかないのだ。明は恵子を黙らせ、自分自身もむっつりと口をつぐんだ。康介はまだ物足りなさそうにしていたが、明が何も言う気がないと分かると、あっさりと追求するのをやめた。

「んーそうか。ま、何もないってんならないんだろ。その代わり、ちゃんと言う時は言ってくれよ」

 康介は軽く肩をすくめてみせると、もう興味がなくなったようにひらひらと手を振りながら教室から出ていった。またいつものように一人で生徒会室に行くのだろう。あいかわらず勉強熱心だと思いながら、明は康介のほとんど真っ白に近い金髪を見送った。

「明がそこまで言うんだったら今日のところは見逃してあげる。でも、隠し事はなしにしてね、恵子。お赤飯の準備もしなきゃいけないし」

 康介がいなくなってしまうと、ひかりもそれ以上詮索する気をなくしてくれたようで、にやりと流し目で明を見ると、そのまま教室から出ていってしまう。購買にでも行くのだろうか。ともかく、明はもっとも手ごわい相手が諦めてくれたことに安堵した。

 だけど、一度怪しまれた以上、これから面倒なことになるぞと明は気が重くなった。ひかりが教室に戻ってくる前に口裏を合わせておこうと恵子の方に目をやると、

「やだもう明と付き合うだなんて別に明のことが嫌いってわけじゃないけどずっときょうだいみたいにしてきたのに今さらそんなこと急に言われたって私にも心の準備ってものがあるし」

 そこには康介もひかりもいなくなったというのに、それにも気付かずくねくねと恥じらいながら誰にともなく言いわけを続ける不審人物がいた。わざわざ声をかけるのも面倒だったので、明は恵子のことは放っておいて、一人で弁当の包みを開いた。結局教室に戻って来たひかりが恵子のポニーテールを引っ張って正気に戻してやるまで、恵子の幸せな時間は続いた。

 

 

その日の帰り道、明と恵子はがっしりと手をつなぎ、深刻な顔をして歩いていた。

「おい、まずいことになったぞ」

「分かってるわよそれくらい」

「あれは完全にまだ俺たちのことを疑ってる目だったぞ」

「だから分かってるってば」

 今日の議題は康介とひかりをどうやってごまかし切るか、だ。あんな風に疑いを向けられた以上、何らかの対策を立てないといけない。しかし、相手は手ごわい。学年一の頭脳を持つ康介と、生徒会を陰で牛耳る裏番のひかりなのだ。この二人はいつだってその恵まれた能力をフル活用して、しょうもないことに力を尽くすのだ。彼らが明たちをからかうことに全力を注いでくるのなら、正直もうどうしようもないと明は思う。二人がこれからどんな手でくるのか、明と恵子は不安にかられながら、特に何の対応策も思いつかないまま、木枯らしに吹かれながら家路を急ぐ。

 

 

――昼休みが終わって、明はほっと一息ついた。どうにかうやむやのうちに康介とひかりの追及から逃れられたと思って安心したのだ。しかしそれは大きな間違いだった。

「明、今日はバイト休みだろ? みんなでお前の家で遊ぼうぜ」

 授業が終わって帰り支度をする明と恵子に、康介はいかにも何かたくらんでいますという顔で話しかけてきた。昼休みにあっさりと引いたのはこういうことだったか。明はすっかり安心してしまっていたさっきまでの自分を悔やんだ。康介はあんなに簡単に面白そうなゴシップを手放すような男ではない。もっと警戒しておくべきだった。

「そうね。もうすぐ私たちも最高学年になるんだし、その前にもう一度生徒会役員の親睦を深めるのも、悪くないんじゃない?」

 ひかりも白々しく会話に混ざる。何が親睦だ。親睦を深めるつもりなどさらさらないような棒読みのひかりに、心の中だけで悪態をつく。犯人を追いつめるように、じりじりと二人が明と恵子に近づいてくる。ずっと疑われているのもいい気分じゃない。でも、家に来られるわけにはいかない。明は面白がってげらげら笑う康介を睨んでやった。

「悪いけど、今日は予定がある」

「恵子とデートか?」

 すかさず康介がちゃちゃを入れるが、明はぐっとこらえる。

「それに、今さら親睦を深めようとしなくたって、私たちはもう十分仲良しじゃない」

「同じ役員の仲間に隠し事をするくらいには、ね」

 ひかりも不満げに恵子に言い返す。どうして自分には話してくれないのか、と恵子を見る目が寂しそうだ。

「そ、それは……」

恵子は何も言えず、申し訳なさそうにひかりから目をそらす。もじもじと俯いて、鞄に付いたストラップを指先でもてあそぶ。そんな態度をとったら何かやましいことがあると言っているようなもんじゃないかと明は頭を抱えたくなった。

「あー、じ、実はな……。そうだ、最近バイト先の新メニューの試作品を作ってて、恵子にはそれを手伝ってもらってるんだ。黙ってて悪かったな。まだ内緒にしとけって言われてたんだ」

 とにかく何でもいいからこの場から逃げようと、明はとっさに嘘をついた。な、恵子、と必死で恵子に目配せする。

「そ、そうそう! そうなのよ! そういうこと!」

 恵子のしどろもどろな反応に、我ながら嘘くさいと明は思ったけれど、もうしょうがない。このまま強引に逃げ切ってしまおうと明は自分の鞄を持って立ち上がった。

「もう少しでいいのが出来そうなんだ。だからしばらくそっちに集中させてくれ。完成したらおごってやるから、今日は見逃してくれよ」

 疑いの目をますます強める康介とひかりを尻目に、明は恵子の手を取って足早に教室から出た。恵子の手に触れた瞬間に、康介が軽やかに口笛を鳴らした。康介とひかりと二人して、隠していたい年頃なのね、初々しいねえまったく、と小芝居をしているのも聞こえてくる。むきになって否定してもまた笑われるだけだ。明はそのまま校門を出るまで振り向かないで歩き続けた――。

 

 

「それでこれからどうするのよ」

「とにかくハナには絶対に家から出るなって言っておいて、あの二人を俺の家に近づけさせないようにするしかないな」

 二人は手をつないだままいつもよりもやや急いで歩く。別にまだ明が恵子のことを引っ張っているわけでもないし、二人の仲が急速に発展したわけでもない。康介とひかりから逃げてきた勢いでなんとなく、だ。

「それってどうなの? なんかハナちゃんのこと監禁してるみたいじゃない。ハナちゃんはペットじゃなくて、明の、その、お嫁さんなんでしょ!」

「おい、そんなことでかい声で話すなよ。それに何回も言ってるだろ。俺はハナと結婚するつもりなんかない」

 明は慌てて恵子が喋るのを止めようとする。康介とひかりから逃げたって、近所から疑いの目を向けられたらおしまいだ。ただでさえ明は無愛想な上に、親を亡くして一人暮らしをしているということで近所から浮いた存在になっている。その上少女を監禁しているという噂まで流れてしまったらもう目も当てられない。明は自らの平穏な暮らしを死守するため、どうにか恵子をなだめようとした。

「うるさい! どうせそんなこと言って、可愛い女の子と二人っきりでいるのを邪魔されたくないから、康介にもひかりにも内緒にしてるんでしょ! ていうかいつまで手なんかつないでるのよ! 離してよ! 明のばかっ! 変態!」

でも、恵子はそんな明の願いも知らずにどんどんヒートアップしていくばっかりで、こうなってしまうともう手がつけられない。せっかくの美人を台無しにして、手を振りほどこうとして暴れる。思えば恵子がハナを初めて見た時もこんな感じだった。あの時恵子がもうちょっとだけ冷静でいてくれたら痛い思いをせずに済んだのになと、明は遠いその日を懐かしんだ。今日はどうするのが正解なんだろうかと少しだけ悩んだけれど、とにかく恵子が手を離せ離せとうるさいので、それに従う。

 ぱっ、と手を離す。

 すると、あんなに騒がしくしていた恵子がぴたりと静かになる。怒りが収まったのだろうかと思って明が恵子をちらりと見てみると、恵子はどうしてだか大声で暴れていたさっきよりも不機嫌そうで、明と目が合うと、ひと言、ばか、とだけ言ってそれっきり黙り込んでしまった。どうやらまた間違った対応をしてしまったみたいだと気付く。理由はまったく分からないが、とにかく恵子が怒っているということだけはさすがの明でも分かる。これ以上恵子を刺激しないようにしようと思い、明も何も言わなかった。女心とはかくも難しく、移ろいやすい。気まずい沈黙は二人が明の家に着くまでずっと続いた。ほんの少しだけ感じる恵子の温もりの名残も、冷たい空気に奪われて、すぐに消えた。

「おかえりー」

 ハナは何も知らない笑顔でいつも通りに玄関まで駆けつけて二人を出迎えてくれた。その頼りないたれ目が、今だけは明に癒しを与えてくれる。すぐ隣からびしびしと怒りのオーラを向けられながら歩くのは、やっぱりなかなかしんどい。このままハナとお喋りして恵子の機嫌も直ってくれないだろうか、と明がなかなか無責任なことを考えていると、

「あ、明と恵子に隠し子だと? おい明、一体どういうことだ! 説明しろ!」

「なんだ。意外とやることやってるんじゃない。見直したわ、恵子」 

背後で何か、例えるなら学生鞄のような物がどさりと地面に落ちる音と、聞き覚えのある、そして今もっとも聞きたくなかった声が聞こえてきた。ご機嫌斜めの恵子に気を取られていて、自分たちの後をつける二人に気付けなかった。明は肩を落として、能天気な考え事をしていたついさっきまでの自分を大いに恨んだ。

 

 

 ハナの変身シーンを康介とひかりにお披露目し、いつか恵子にした説明をまた繰り返して、ようやく二人が事情を理解してくれた頃、ハナと恵子が紅茶とお菓子を用意してくれたので、明はようやく肩の荷が下りたような気分になってその紅茶に口をつけた。今日は失敗しないで出来たので、ハナは得意満面で恵子に褒めてもらっている。あれに尻尾が付いていたら勢いよく振りまわしているのだろう。誰のせいでこんな苦労をしてると思ってるんだと明はため息をつく。

「そういうわけで、あたしは明のお嫁さんになったから、ふつつかものですが……」

「おい」

「今はまだ花嫁修業の身ですが……」

「お前のために犬小屋を作ってやろうか?」

「むー。なんで明はそうやって意地悪ばっかり言うの!」

「しつけの一環だ」

 調子に乗ったハナを黙らせる。ハナも負けじと文句を言う。と、正面から二人分の嫌な視線を感じた。しまった。つい康介とひかりがいることを忘れていた。

「息ぴったりじゃない。さすが一緒に暮らしてるだけあるね」

「しつけだなんて、生徒会長様はなかなか変態的なプレイがお好きなようで」

 二人はにやにやと明をからかう。まったく不覚だった。普段ならこんなことにはならないのに。どうもハナといると調子が狂ってしまう。弱味ともいえない弱味だし、二人はこれをネタに明を脅すようなことはしないだろうけど、恥ずかしいところを見られてしまったなと思う。康介とひかりは、普段見せない明の顔を見て、ここぞとばかりにやいのやいのと騒ぎたてる。でもどうしてだろうか、明はなんだか、そんなことをされても、そんなに悪い気はしないのだった。

「ま、事情は分かったよ。なんか協力出来ることがあったら言えよ。暇だったら助けてやってもいいぜ」

 康介はひとしきり明をからかうと、もう話は終わったとばかりに立ち上がった。そのまま鞄をつかんで帰ろうとする。いくら冬とはいっても、まだ学校が終わったばかりで、弱々しく光る太陽も、まだかろうじて地平線の上に頭を出している。せっかく来たんだから、もうちょっとゆっくりしてもいいのにと明が思っていると、そんな考えが顔にも出ていたのか、

「今日のうちにやっておきたい問題集があるんだよ。悪いな」

 康介に先回りでそう言われてしまった。

 ひかりと恵子も、じゃあ私たちも、と立ち上がる。結局、三人は途中まで一緒に帰ることになった。

「じゃ、後は若いお二人に任せて。どうぞ楽しい夜を」

「ええっ!」

「おい、康介」

 また知り合いが増えたと喜んでいたハナは、みんなもう帰っちゃうのかと少し寂しそうにしていたけれど、康介の冗談を聞いて耳まで赤くして固まってしまった。いつも自分からべたべたしてくるくせに、人に言われると恥ずかしいみたいだ。

「でも、お前ほんとに変わったと思うぜ。多分前までだったら、俺が帰るって言ったら、そのまま無反応で俺たちを帰してただろ」

 玄関を出る前、康介が一人残って明にささやいた。

「そうかもな」

 玄関先で話しこんでいる女子たちに聞こえないように、明も小さな声で返す。康介に自分の内心が見抜かれていたことに驚きはなかった。康介は適当なようで人をよく見ている奴だし、明は隠し事が苦手だから、やっぱり外から見ても自分は変わりつつあるのか、と改めて思ったくらいだった。

「やっぱ男は家庭を持つと変わるもんだねえ。それじゃまた学校でな」

 康介は言い返す隙も与えずに、最後まで明を茶化しながら玄関から出ていってしまった。まったく康介には敵わない。明は、皮肉っぽいけどどこか幼さの抜けない康介の笑顔を思い出して、一人で苦笑いした。そこにちょうどハナが玄関から入ってきたので、明は急いで仏頂面を作った。

「あっ、今笑ってたでしょ! 康介くんとなんのお話してたの? ずるいっ! あたしにももっと笑ってよー」

 ちょろちょろとまとわりつくハナをあしらいながら、リビングに戻る。テーブルにはさっきまでみんなが使っていたカップが五個、置いてある。明の家には五人分のティーセットなんかないので、みんなばらばらのマグカップだ。五人分もの食器がテーブルに載っているなんていつぶりだろうと明は思った。少なくとも、両親がいなくなったあとは一度もない。これもハナのおかげといえばいいのか、ハナのせいといえばいいのか。ちょっと前までだったら、おそらく明はハナのせいだと思っていただろう。でも、今は何となく、ハナのおかげだという心もちがしていた。

「……なあ、ハナ。今日は俺は口を出さないから、お前一人で晩飯作ってみろ」

 そう言ったのはほんの気まぐれかもしれなかった。いつもはハナが料理をしている脇で明か恵子があれこれとアドバイスをしてやっている。最近はようやくまともなものが出来上がるようになってきてはいるものの、まだハナ一人だけで最初から最後まで料理を完成させたことはない。

「えっ? いいの?」

 突然の提案に、さすがのハナもうろたえる。やってみたいという気持ちもあるけど、失敗したらどうしようといった表情でおろおろと明を上目づかいで見てきた。最初の頃の失敗が忘れられないのか、ずいぶんと自信なさげに眉をへにゃっとハの字にしている。

「まあ、別に完璧なのを作れって言ってるんじゃないんだ。気楽にやれよ」

「えっ? じゃあ失敗しても怒らない? なーんだ、だったら任せといて! いやー、最近明も優しくなってきたねっ。これはお嫁さんとして認められてきてるってことかなー」

途端にハナは元気いっぱいになって、キッチンへと走り出す。現金な奴だと明は思う。あんまり不安そうにするからとちょっと励ましてやったらこれだ。明はハナの調子のよさに感心すらした。

「食えないようなのを作ったら、怒るぞ」

えー、というハナの声を後ろに聞きながら、明はソファに座ってテレビを点けた。完全に自分は関わらないぞ、というのを態度で示す。ハナは少しの間うんうんと唸っていたけれど、やがて覚悟を決めたのか、かけ声と一緒に冷蔵庫を開ける音が、明の耳に聞こえてきた。

適当にチャンネルを回しながら、明は背中でハナが料理をしているのを聞いていた。野菜を洗う水音、不揃いな包丁の音、それらは退屈なニュース番組と一緒になって、疲れた明の眠気を誘った。今日はいろいろあったからな、と明は今日あったことを振り返ってみた。まさか康介たちにまでハナのことを知られるとは思わなかった。今後はもっと注意しないと。まあでもそれはいい。康介に言われたこと、これが気になる。自分は変わってきているのだろうか、これからどう変わっていくのだろうか、明は康介が言ったことを思い出して、少し考えてみた。自分のことと、ハナのこと。けれど、特にこれといった結論にはたどり着けないまま、いつの間にか明は眠りに落ちてしまっていた。

浅い眠りの中で、ハナが料理を完璧に成功させた夢を見た。文句のつけようのない品々。誇らしげな顔のハナと、それを褒める自分。

夢の中で自分がどんな表情だったか、明は覚えていない。ただ、ハナが何かに失敗した叫び声を上げて、目が覚めてしまった時、もう少しだけこの夢を見ていたかった、とは思った。

「これからに期待だな」

 明は小さく独り言を言って、後始末のためにソファから立ち上がった。これから先もずっとハナと一緒に暮らしていくものだと、この生活がずっと変わらずに続いていくものだと、明は気付かないうちにそう思うようになっていた。

 

 

「それで恵子。これからどうするつもり?」

「どうって言われても……」

 明の家を出て、康介と別れた途端、ひかりが深刻な顔で恵子に詰め寄る。鋭い瞳がまっすぐ睨むように恵子を見つめる。ひかりが話しているのはもちろんハナのことだ。

「どうって言われても、なんて言ってる場合じゃないよ。恵子が今までやってきた通い妻作戦の上をいかれてるんだよ」

「通い妻なんて、そんな……」

 たしかに恵子自身も、ちょっとはお嫁さん気取りで毎朝明のことを起こすために明の家に通っていたわけだけど、そうやって面と向かって言われるとやっぱり照れくさい。

「そこでそうやって照れてるから、いつまでたっても仲が進展しないんだよ」

 赤面する恵子にひかりが追い打ちをかける。

「何よ」

「ほんとのことでしょ。恵子は、明とどうなりたいの? それをはっきりしないと、手遅れになっちゃうかもよ」

 いきなり、ひかりが核心をついてきた。明とどうなりたいか、明をどう思っているのか。そんなことはとっくにはっきりと分かっている。けれど今までずっと、明との仲をひかりと康介にからかわれながらも、明に対する自分の思いは誰にも打ち明けたことはなかった。どうせもうひかりたちにはばればれだし、というのと、自分の口からそれを言ってしまって、本当にそれを認めることになるのが怖い、というのが、恵子をもたもたさせていた。でも、もうそんなことを言っている場合なんかじゃない。ちゃんと覚悟を決めないと。恵子は思い切って口を開く。

「正直言うと、よく分からないんだ。もちろん明のことは好き。幼馴染とかじゃなく、ちゃんと男の子として。ハナちゃんが明の家に住むことになって、明とどんどん仲良くなっていくのを見てると、嫉妬もしちゃうし、嫌だなって思う。でも、明がだんだん元気になって、いい方向に変わってきたのは、ハナちゃんと一緒に暮らすようになってからで、ハナちゃんのおかげなんだって思うと、やっぱりハナちゃんが来てくれてよかったとも思う。私にはずっと出来なかったことだから……。明は今すごく幸せそうに見えるの。明はずっと悲しい思いをしてきたから、私は、今はその明を見ていられればそれでいいかな、って」

 恵子が話している間は黙って聞いていてくれたけど、恵子が話し終わると、ひかりは頭を振って大げさな息を吐いた。白い息がひかりの顔の周りを流れる。呆れたようでもあるし、納得したようでもあった。

「ほんとに恵子は、人がいいっていうか、なんていうか……。まあ、それで恵子が幸せなら私は何も言うことはないよ。でも、後悔はしないでね。私は、恵子のそんな顔見たくないから」

「ありがと。でも、別に諦めるってことじゃないから。前より明の家に行く回数も増えてるんだし」

「でも相手は一緒に住んでるんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

 ひかりの意地悪な攻撃に恵子は言葉につまる。でも、こんなやりとりが楽しかった。

「ずっとちゃんと言葉にするのが怖かったんだけど、言ってみると楽になるもんだね。こんなことならもっと早くひかりに相談してればよかった。ねえ、ひかりは好きな男の子とかいないの? 私も話したんだし、ひかりも教えてよ」

 恵子は、すっきりしたことだし、今までのお返しもこめて、にやにやと意地悪くひかりに聞いてみた。恵子も全然明のことを相談してこなかったけれど、ひかりはそれ以上にそういう話はしてくれなかった。ひかりだってそういう話の一つや二つはあるに違いない。この際だし、ひとつ乙女の秘密を分かち合おう。恵子はそう思ってひかりを突っつく。

「んー……。私は、今まで男の子を好きになったことはないな」

「えー? 一人も?」

「そうだね」

「この人、ちょっとかっこいいなって思ったことは?」

「そういうの、よく分かんないんだ」

「ほんとにー?」

 それはすごく意外な答えだった。だって二人は花の高校二年、セブンティーンなのに。ひかりは恵子に比べて大人びているから、もしかしたらなんにも言わないだけで実はもうボーイフレンドなんかがいてもおかしくないとまで恵子は思っていた。

「ひかりは美人なんだから、男の子だって放っておかないと思うんだけどな」

「もう、やめてよ。『ミス和田』三位の恵子に言われたって嬉しくないよ」

「ひかりだってノミネートされてたくせに。そもそも、ひかりが『恥ずかしいから』って言って辞退したから私が代わりに出ることになったんだよ」

「それは、そうだけど……」

 珍しくひかりが照れている。夕焼けみたいに顔が赤くなって、眼鏡の奥の切れ長の瞳がおろおろと泳ぐ。今までずっと、ひかりのことを美人だと思っていたけど、それだけじゃなくて可愛いところもあるんだな、と思った。ひかりとはけっこう何でも話してきたつもりだったけど、まだまだ知らないこともたくさんある。恵子は歩きながら、なんだかおかしくなった。こんな話をひかりとしたのも、そもそもはハナが明の家に住むことになったからで、もしもハナがいなかったら恵子はずっと自分の思いを誰にも相談しないで、なんとなく居心地がいい関係のままで満足していたんだと思うと、やっぱりひかりが何と言おうと、ハナが明の家に来たのはいいことなんだと恵子は思った。

「なに笑ってるの?」

 知らないうちに笑ってしまっていたみたいだ。ひかりが変なものでも見るように聞いてくる。

「べっつにー」

 こんなこと考えてるってひかりにばれたら怒られるかな。だからあんたはって呆れるひかりの姿が目に浮かぶみたいだ。だから恵子は、ひかりには何も言わないでただ笑い続けた。

「変な恵子」

 ひかりも恵子につられて笑いだした。そのまま二人はばいばいするまでずっと笑いながら歩いた。歩くのがゆっくりすぎて、家に着く頃にはもうすっかり日は沈んでしまっていたけれど、暗い空に、寄り添うように光る小さい星を二つ見つけて、それがさっきまで二人並んで歩いていた自分とひかりみたいに見えて、恵子はまた嬉しくなった。そこで自分と明みたいだって思えないからダメなんだ、ってひかりなら言うのかな。でも今日は、やっぱりあれは自分とひかりなんだって恵子は思いたかった。今日は初めて自分の恋心を親友に相談出来た日だから。恵子はもうしばらくその星を見上げて、そしてぶるぶるっと足元から寒さが上がってきた頃、その二つ星に別れを告げて、暖かいストーブが待つ家の中に入った。

 

キリいいとこでここまで!