今日のウオズミ

サラリーマンの雑記。かっこいいサラリーマンを目指すのだ

【黒歴史】電撃大賞1次落ち→小説家になろうに載せてたラノベを晒す②

 続きンゴ

①は↓

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ハナとの生活にもだいぶ慣れ、そろそろ高校二年生も終わりに近づいてきた頃、彼は突然やってきた。

 その日明はいつものように授業を受け、いつものように家に帰ってきた。けれど家に着いた明が見たのは、いつもとはちょっと違う光景だった。明の家の玄関を塞ぐように、一台の黒い軽自動車が停められていた。中には運転席に座る男が一人。何か様子がおかしいと思いながら明がその車に近づいていくと、車の中の男も明の視線に気付いたようで、窓を開けて明に話しかけてきた。

「君が、『明くん』かな?」

 明に話しかけてきたその男は、嫌なうすら笑いを顔に浮かべて、じっくりと品定めでもするように明を見た。古臭い丸眼鏡のフレームが、太陽の光を反射した。男は運転席の窓に肘をつき、その丸眼鏡の位置を手で直した。終始にやにやとしていて感じが悪い。明の家の表札には名字である『柴野』しか書かれていない。どうして自分の下の名前を知っているんだと明が疑問を持った時、頬杖をついて明を見るその男が、白衣を着ていることに気がついた。まさか、と思うと、男も明の目の色が変わったのに気付いたようで、不愉快な笑顔をいっそう歪め、ひらひらとその手を振ってみせた。

「博士、って言えば伝わるだろう、明くん? ハナはちょっと預からせてもらっている。いやあ、思ったより探すのに時間がかかっちゃったよ。まさか誰かの家に住まわせてもらっていたとはね」

「くっ……」

 車の中にハナの姿はない。もう研究所かどこかに連れていかれてしまったのだろうか。いつかこういう時が来るかもしれないと覚悟はしていた。現代の科学をはるかに越えるハナみたいな存在を造ってしまうような奴だ。ハナを決して家から出さないようにかくまったところで、隠し通せるわけもない。覚悟はしていたはずだった。でも、いざ目の前に現実を突き付けらると、明はただ突っ立ったまま、馬鹿みたいに震え、その男を睨みつけることすら出来ないでいるのだった。

「んー、いい顔だ」

 丸眼鏡の奥の目が、楽しそうに明を見つめる。

「は、ハナをどうしたんだ」

 ねっとりと絡みつくような男の視線に、明は金縛りにでもあったように動けない。動けないまま、うわずった声で質問する。

「ちょっと眠ってもらっているだけさ。そんなに怖がることはない。君には、ちょっとそこまで、ドライブに付き合ってもらおうか」

 男はそう言うと、あごをしゃくって車の助手席を指し、さっさと体を引っ込めて窓を閉めてしまった。あっという間のことに頭がついてこない。ただ、選択肢はない。そのことだけは分かった。

 言われるがままに車に乗り込む。明がシートベルトを締めるのも待たずに、車は走り出した。

「分かってると思うけど、運転中に変なことをしようとは思わないでくれよ。危ないからね。交通事故なんかで死ぬのも馬鹿らしいだろ? それに、」

 男はそこで言葉を切って、運転しながら助手席の明をちらりと見る。明は手の震えのせいで、まだシートベルトをうまく締められずにいた。見られている焦りから、明の震えはさらに大きくなり、ますますうまくいかない。

「何かしでかす度胸もなさそうだ」

 明を小馬鹿にするように、男は残りの言葉を口にした。

 それからしばらく車の中は沈黙に包まれた。車は住宅街を出て、市街地も抜けて、どんどんと進む。市の中心部から離れていき、周囲の風景から人工物が少なくなっていくにつれてだんだんと日も沈み、それが明の不安を煽った。ふと、ハナが言っていたことを思い出した。研究所は、たしかどこかの山小屋みたいなものらしい。その山の中の研究所に連れていかれるのだろうかと明が思い始めた頃、車が国道を外れて細い林道に入り、やっぱりそうかと明は気を引き締めた。車はがたがたと揺れながら山道を走る。それから目的地に着くまで、結局男はひと言も話さなかった。

「さあ、着いた。もうお気付きだろうけど、僕の研究所だ」

 ハナが山小屋みたいなものだと言っていたその建物は、明が思っていたよりもずっと立派で、ちょっとしたスキー場のロッジほどの大きさだった。もうほとんど日は落ちてしまっているので、全体の大きさはよく分からなかったけれど、明かりのついていないその建物は薄暗い中でもかなりの存在感で、何もない山中にこんなものが人知れずあるという事実に明は面食らった。

 明は男に連れられるままに研究所に入る。男が部屋の電気をつけると、雑然としていたが、特に何の変哲もない空間がそこにあった。テーブルと、ソファ、それからキッチンのようなスペースも。研究と関係がありそうなものはない。リビングみたいなところだよ、と男が言った。ふと壁の時計に目をやると、ずいぶんと時間が過ぎたような気がしていたけれど、意外にも車に乗ってからまだ一時間も経っていない。

「とりあえず座りなよ。コーヒーでも入れよう」

「い、いらない」

「毒なんか入れやしないさ」

 男は軽く笑うと、コンロに火をかけ、お湯を沸かし始めた。その自分の臆病を馬鹿にしたような笑いに、明は悔しくなる。しかし結局何も言い返せずに、言われたとおりにソファに腰掛けた。これから何をされるのだろうかと明は考えた。とりあえずここまで何も危害を加えられずにきたのだから、すぐに殺されたりすることはないとは思うけど、それでも自分は知ってはいけないことを知っているし、相手はすごい科学者のようなので、どんなことをしてくるのか想像もつかない。明に背を向けてコーヒーを入れるのに夢中になっている今なら、不意を突いて襲いかかれば、もしかしたらチャンスはあったかもしれないけれど、ハナの様子もまだ聞いていないし、何より明にはそんな勇気がなかった。

「さて、さっそくだけど本題に入ろうか」

 二人分のマグカップをテーブルに置くと、男は明の向かいに座り、暗い目でまっすぐに明を見た。明も男から目をそらさないよう頑張ったが、男はあっけないほど簡単に明から視線を外し、シュガースティックを何本分もどばどばとコーヒーに入れ始めた。ゆっくりとスプーンでかき回し、さして何の感慨もないようにそれを飲む。ぼさぼさの長髪が、頬がこけているのをさらに強調していて、余計に不健康そうだ。

「ハナからどこまで聞いたのかは分からないけど、それは問題じゃない。問題なのは、君がハナの存在を知ってしまったってことだ。まったく、これは由々しき事態だよ。もしもハナのことが世間に公表されたら、大変なことになる」

 男は丸眼鏡を外すと、ポケットからハンカチを出してそのレンズを拭いた。まるで話の内容よりも眼鏡の汚れの方が気になるように、執拗に拭き続ける。そして、男は注意を眼鏡のレンズに向けたまま話を続ける。

「困った子だよ。外には出ないように言い聞かせていたのに。ちょっと甘やかしすぎたみたいだ。これからはもうちょっと厳しくしないと」

「厳しく、って……ハナをどうするつもりなんだ?」

「厳しくは厳しくさ。それとも詳しく聞きたいのかい? 君もなかなかいい趣味をしてるね。気が合いそうだ」

 厳しく、という言葉がこんなに残酷な響きを持つのかと明は背筋が凍った。この男がハナをどうするつもりなのか、考えたくもなかった。男はまだ眼鏡に気を取られたままだ。明とは目も合わせずに、ずっとにやにやとしている。その飄々とした喋り方が、明は気に入らなかった。

「ハナは、お前を親だと思って慕ってるんだぞ。どうしてそんな……」

「おや、一体どんな想像をしたのかな? でもそうだね、どうして、か。そうだな、言葉にするのは難しいけど、例えば飼い犬に手を噛まれたりしたら、もうしないように厳しくしつけなきゃ、って思うだろ? そんな感じかな」

「ハナはお前にとってただの犬ってことかよ!」

 思わず明は立ち上がって叫んだ。明自身、ハナのことはペット扱いしていた。けれど、明は自分勝手にも、ハナを飼い犬呼ばわりしたこの男に激しい怒りを感じた。どうしてなのかは分からなかった。でも、頭にきた。

「怒ったかい? それで、怒ったらどうする? 僕を殴ってみるかい? 出来るのかな? ハナの安否もまだ分からないのに、僕に危害を加えることが」

 男はあくまで冷静だった。明の方も見ずに、ずっと眼鏡を気にしたまま、嫌みたっぷりにそう言った。男の言う通りだった。明は動けない。握りしめた拳をぶつける相手を失い、ゆっくりと手をおろす。

「そして今、君はほっとしたね。ハナの身が心配だから僕を殴っちゃいけない、という大義名分が出来て安心している。ほんとはただ人を殴る度胸がないだけなのにね」

「ぐっ……」

 男はようやくレンズの具合に満足したのか丸眼鏡をかけなおして、顔を上げた。明は何も言い返せなかった。すべてを見透かされているような気分になって、何をしても無駄だと思わされてしまった。座りなよ、と男が言った。明はどうすることも出来ず、それに従う。男がそれを見てせせら笑う。

「なんだか話が脱線してしまったね。いけないいけない、僕の悪い癖なんだ。これから話すことが、本当の本題だ」

 コーヒーをすすり、男が言った。明は黙ってそれを聞く。

「君はハナの秘密を知ってしまった。そして僕はハナのことを世間に知られたくはない。もし君が僕の立場だとしたら、どうする?」

 すぐに一つの答えが明の頭に浮かんだ。でもそれを口に出すのは憚られた。もしもそれを言葉にしてしまったら、本当にそうなるような気がした。男は、そんな明の考えを分かっているように、意地悪く笑いながら明を見つめて、答えを促した。ほんの少しだけ明は黙って男を睨み返していたけれど、そんなささやかな反抗になんの意味もないことはもう分かっていた。明は観念してその答えを口にした。

「秘密を知った奴を、始末する」

 自分を、ではなく秘密を知った奴を、と言うのが、明のせめてもの抵抗というか、殺されたくないという願望だった。

「よく出来ました」

 楽しそうに男が言う。明の反応を心底面白がっているみたいだけど、眼鏡の奥の目は笑っていない。そのアンバランスさが気持ち悪い。

「でも、それを実際にやっちゃうといろいろと面倒なことになるんだよ。例えば君の体の処理とか。それに君一人だけならまだどうにでもなるんだけど、君の他にまだ三人もいるだろ?」

「なっ……」

「どうしたんだい? もちろんちゃんと調べてあるよ。桜場恵子、小杉康介、橘ひかり、そして君、柴野明。ハナのことを知っているのはこの四人だね。そして全員が県立和田高校の生徒会役員だ。全員を消してしまうのは骨が折れる。かなり大騒ぎにもなるだろう。出来れば選びたくない選択肢だ。そこで、もう一つの選択肢の方も考えてみよう。何だか分かるかい?」

 簡単な話だ。すぐに分かってしまった。秘密を知っている者を始末出来ないなら、秘密そのものをなかったことにしてしまえばいい。その秘密というのは、今回の場合だと――

「ハナを、始末する」

「その通り」

 男は満足げに大きく頷いた。

「いやあ、和田高の偏差値なんか大したことないと思ってたけど、君はなかなかどうして頭が切れるじゃないか。僕は頭のいい子が好きなんだ。さすが、生徒会長様ってやつだね」

 生徒会長様、という言い方に明は康介のことを思い出した。康介と違って、明はあんまり勉強が得意な方ではないので、頭がいいなんて言われたことは今までなかったが、こんなわけの分からない男に褒められたところで、嬉しくも何ともない。明は顔をしかめた。けれど男はそんなのには動じないで、ますます嫌らしく口を歪めて、さらに明を追い詰めるような言葉を口にする。

「その賢い頭に免じて、選択権を君にあげよう。なあに、簡単な二択さ。自分か、ハナか。もし君がハナのことや僕のことを絶対誰にも言わないと誓うなら、君に危害を加えることなく無事に家に帰すことを約束する。残りの三人には、ハナは博士のところに帰ったとでも言っておいてくれればいい。ただこの選択肢を選んだ場合、僕はハナをいなかったことにする。万が一君が秘密を漏らしちゃった時でも大丈夫なように。証拠隠滅ってやつだね。もう一つの選択肢は、君たち四人を消してしまうことだ。こっちを選べばハナの身の安全は保障される。君が自分や友達を犠牲にしてでもハナのことを守りたいと思うなら、それでも構わない。さあ、どっちを選ぶ? 自分か、ハナか」

 あまりにも残酷な二択を明に突き付けると、男は初めて心から楽しそうな声で笑いだした。今まで明に見せていた仮面みたいな表情とは全然違う、人間の汚いところが凝縮されたような顔。生理的な嫌悪感を催す顔だったが、明は、その男から目をそらすことが出来なかった。

「そんな顔してどうしたんだい? 何を怖がる必要があるんだい? ひと言帰りたいって言えばすぐにでも家に帰してあげるって言ってるのに」

 明は絶望的な気分で唇を噛んだ。どうしたらいいのか分からない。ハナを見殺しにして逃げるのか。友達を巻き込んで死ぬのか。選べない。明は自分の足ががくがくと震えているのにも気付かないで、ただ嬉しそうに濁ったその目から逃れられずに、頭が真っ白になっていくばっかりだった。

「簡単なことだ! たったひと言でいい! まだ死にたくはないだろう? 誰も君を責めやしないさ! さあ! 無様に僕に命乞いをするがいい! はあーっはっはっはははははは……」

「もうっ、博士! うるさいよー」

「はは……は?」

 しかし男の狂気の笑いは、突然の闖入者によって中断された。奥のドアからのそのそと歩いてきた、その聞き覚えのある声の主は、博士と名乗るこの男に拉致、監禁されているはずの、怯えながら明の助けを待っているはずの、ハナであった。怯えているどころか、ややサイズの大きいパジャマに身を包んだハナは、ずいぶんとくつろいでいるようにさえ見えた。

「あああああ! ごめんよハナ! 起こしちゃったかい? 喉は乾いていないかい? 今すぐハナの分のコーヒーも用意するからね! それともお茶がいいかい? ジュースもあるよ!」

 そして、たった今まで狂気にあふれた笑い声を上げていた男は、ハナの姿を見るやいなや一目散にハナに駆け寄り、今までの絡みつくような声が嘘のように、でれでれとハナに話しかけている。そして寝起きと思われるハナも、それを当たり前のように受け入れている。何が何だか分からない。明が目の前の男のあまりの変わりようについていけず、ただ呆然とその様子を眺めていると、ハナがこちらに気付いて手を振ってきたが、明の表情から事情を悟ったのか、ハナは、きっ、といまだにハナから離れようとしない男を睨んだ。ああハナ、そいつにケンカを売っちゃいけない、と明は一瞬思ったけれど、それはいらぬ心配だった。

「博士、またマッドサイエンティストごっこしてたでしょー! 知らない人は本気にしちゃうんだからダメって言ったのにー!」

 マッドサイエンティスト……ごっこ? 明は一度ではハナの言葉の意味をうまく理解出来なかった。マッドサイエンティスト。これは分かる。常軌を逸した、いわゆる狂った科学者のことだ。そして、ごっこ。もう一度頭の中で考えてみる。ごっこ――何かになったつもりになって遊ぶもの。ということは、つまり……。

「俺を、だましてたのか……?」

「あー、やっぱり! もうっ、明が困ってるでしょ!」

 おそるおそる尋ねる明と、男を叱りつけるハナ。いつもとまったく逆の光景がそこにあった。

「だました、か。まあ確かに、そう言えなくもない、かな?」

「博士、もうそういうのいいから」

 博士と呼ばれた男は明に向き直ると、さっきまでの口調のまま、どうしようもないほどどうでもいいことを言ったけれど、ハナにたしなめられるとすぐに黙った。

「ハナ、だってお前、拉致されて薬かなんかで眠らされてたんじゃ……」

「違うよ? 今日博士が明の家に迎えに来てくれてね、それで明の学校が終わるのをここで待ってたら眠くなってきたからお昼寝してたの」

 話が違う。ハナはこいつに無理やり連れ戻されて監禁されていたんじゃないのか、明は説明を求めて男を見た。

「嘘はついてないよ。ハナは預からせてもらった。ハナには眠ってもらっている。としか僕は言ってないんだから。勝手に勘違いしたのは君だよ、明くん」

男はしてやったりの顔でにんまりと笑う。これが男の素の表情なのだろう、さっきよりも子供っぽくて、裏がなさそうな笑顔だった。ただ明としては、その顔はさっきまでの歪んだ笑いよりも何倍も憎たらしいものだった。

「いやー、でも、探すのに苦労したのはほんとだよ。まずはハナの匂いを抽出して、その匂いをたどる装置を大急ぎで作って、それから……」

「そ、それに、そもそもハナ、お前、今さら博士のところなんて戻れないって言ってただろ? なに普通に戻ってきてるんだよ」

 男がなにやら気持ちの悪いことを言いだしたけれど、それを無視して明は根本的な疑問をハナにぶつける。博士との仲が問題ないならハナは家出だってすることもなかったのに、どうしてそんなに仲良しみたいに話しているんだ。明は納得いかない。

「あー、それなんだけどね……。今日博士が迎えに来てくれた時に、博士がごめんって謝ってね、それであたしも謝ってね……だからつまり……。あたしたち仲直りしたの」

「…………」

 明は何も言えない。さっきまで抱いていた恐怖やら心配が、水を打ったように消えていくのを感じた。怒るとかどうとかじゃなく、ただ純粋に頭で何も考えられなくなっていた。すべての原因はその男にあるのに、ハナはすごく申し訳なさそうにしている。

「はあ……」

 明は座っていたソファにさらに深く身を沈めた。何も考えたくはないけれど、とにかくハナが無事だということだけは分かった。明は安堵感でいっぱいで、全身の力が抜けてしまって、もう二度と立ち上がれない気がした。

 

 

「ばかー!」

 しばらく時間が経って、明と博士から事情を聞いたハナは、怒りに身を震わせながら、明が今まで聞いたこともない大声で博士を怒鳴りつけた。ハナは明の隣に陣取って、正面に座る博士をわなわなと睨んでいる。もともとたれ目がちで気の弱そうな顔つきだからあんまり迫力はないけれど、それでも話し始めの頃は自信満々だった博士がしゅんとうなだれているので、それなりの効果はあるみたいだ。

「じゃあ、何もかもただのハッタリだったってことか? 人を殺せるようなものは持ってないし、康介たちのことも、ただハナに聞いたから知ってただけだっていう……」

「まあ、そういうことになるかな。平たく言うと」

「平たくも何もないでしょっ! もう信じられない。博士がそんな嘘つくなんて。あたし、博士は変人だけどそういうことはしないって思ってたのにー」

 ハナは不満たらたらのじっとりとした目で博士を責める。分かりやすくほっぺたまでふくらませて、全身で怒りを表現しようとしている。でもやっぱりやればやるほど子供っぽく見えてしまって怖さはない。

「だって、こいつは僕の大事なハナをたぶらかしたんだよ! そんな奴、こらしめてやらなきゃだめだって思うじゃないか!」

 博士はやや涙目になりながら、明を指さしてそう叫んだ。言っていることはとても間抜けだったけど、博士の顔が真剣そのものだったので、明は何も口を挟めずに、ハナが何か言ってくれるのを待った。こういう内輪のもめごとによそ者が出しゃばるのはよくないと、明は自分で自分に言いわけして、一人でうんと頷いた。

「博士はあたしの話のどこを聞いてたのっ? 明はあたしを助けてくれた恩人だってちゃんと言ったじゃない!」

「そこまではいいさ! その後はなんだい! その恩返しにお嫁さんになるなんて! そんな話があってたまるか! そんなのは昔話の世界だけだ! ハナは何かこいつに弱味を握られて、しょうがなく一緒に暮らしてただけなんだろう? なあ、そうなんだろう? そうだと言ってくれよハナあああああああ!」

 博士はソファから身を乗り出し、テーブルを乗り越えて、向かい側にいるハナの足元にすがりついて絶叫した。その表情は、さっきの狂った笑い声を上げた時よりもさらに鬼気迫るもので、今までこんな奴にまんまとだまされていたのかと思うと明はやるせない気持ちになった。そして、こんな大人にだけはならないようにしようとひそかに心に誓った。

「もうっ! あたしはたぶらかされてなんかないもん! 自分で明のお嫁さんになるって決めたのー!」

 足をじたばたさせて博士を振り払いながら、ハナがそう宣言したところで、明はやっと思考が追いついてきて、自分に関わる大事な話が自分抜きにして進められようとしているのではないかということに気が付いた。だけどそんな明をよそに、ハナと博士はどんどん先に行ってしまう。

「あのー……」

「ねえ博士、聞いてっ。あたし、しばらく明と一緒に暮らしてみて分かったの。いつまでもここで何もしないでいるわけにはいかない、って。それに明は、見た目はちょっと愛想が悪いけど、ほんとはとっても思いやりがあるいい人なんだよ。いつも失敗ばっかりのあたしを見捨てないで、ちゃんと助けてくれるの。あたし、明とならずっとうまくやっていけると思う。あたし、明と幸せになりたい」

 ハナはいまだにテーブルにうずくまる博士にそう語りかけた。明の声なんか全然耳に届いてないみたいである。

 博士が顔を上げた。その顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。あふれる涙をぬぐいもせず、博士はハナの手を取った。

「ハナの言う通りかもしれないね。僕はハナを失いたくないあまり、大切なものが見えなくなっていたみたいだ。こんな愚かな僕を許しておくれ、ハナ」

「ううん、いいの。あたし、博士にはすっごく感謝してる。だってあたしは博士がいなかったら今こうやっていることもなかったんだもん。ありがとう、博士。あたし、博士と一緒に暮らしてたこと、絶対忘れない」

「おーい」

 感極まってしまったのか、目にいっぱい涙を浮かべながら、ハナは博士の肩をそっと抱いた。そのまま白衣に顔をうずめて、ハナはまるで嫁入り前の娘のように、父との別れを惜しむように、泣き出した。もちろん二人とも明のことは無視している。もしかしたら明のことなんかもう忘れてしまっているのかもしれない。

「ああ、ハナ。いつの間にかこんなに大きくなってしまって。そうだね、子はいずれ親の元を離れるものだ。寂しいけれど、これも時の流れ。大丈夫。ハナが選んだ人とならきっとうまくやっていけるさ。なんたって、ハナはこの僕が手塩にかけて育てた自慢の子なんだから」

「もしもーし」

 あんまりにも無視されるので、明はもしかしたら自分は実はここにはいないのではないかと思ってきた。今ここにいるのはただの意識で、自分の本体はどこか別の場所にあるのではなかろうか。だから二人とも自分に気づかないんだろう――。ということをつい考えてしまうくらいには、明は無視されていた。

 でも、そろそろ明の我慢にも限界がやってきた。どうしてわけも分からず連れてこられた山の中の研究所で、こんなお涙ちょうだいの親子愛を見せられなきゃならないのだ。

「いい加減に……」

 明は、博士と抱き合って別れを惜しむハナに向けてチョップの構えをとった。ハナはまだ気付かない。

「寂しくなったらいつでも来てね。大丈夫、こんなに近くに住んでるんだからいつでも会えぶっ!」

 明のチョップがハナの脳天に突き刺さった。ハナと博士の感動のワンシーンがようやく終わった。

「お前って奴は……。どうして俺とお前が結婚することになってるんだよ」

「うう……。どうして邪魔するのっ! 今いいところなんだからー!」

 ハナは頭をおさえて明に文句を言った。さっきまでの名残か、それともただ明のチョップが痛かったのか、涙目で明を睨む。

「いや、だからいいところも何も」

「きいいいいさまああああああ! 今ハナに手を、手をあげたなあああああああああああ! 許さん! 許さんぞおおおおおおおお!」

 明はとにかく冷静に誤解を解こうと思っていたけれど、出来なかった。

「今! ハナに! 暴力を! やめだやめだ! こんな男にハナはやれん! さっさと出て行け!」

 博士はそのひょろりとした体からは想像も出来ない素早さで起き上がり、テーブルをひっくり返しながら明とハナの間に立ちふさがってハナを背中に隠すと、明に震える指を突き付けて叫んだ。さっきまで話していた殺すうんぬんのくだりは、実は本気だったんじゃないかと思うほどの形相だった。帰れるのならもう帰りたい。明は割と真剣にそう思う。

 博士のつばがかかるので、明は嫌そうに顔をそむける。博士の後ろにいるハナのほうに目をやってみると、多分今まで博士がこんなに取り乱しているところを見たことがないのだろう、ハナが小さくなってびくびくと怯えていた。こいつはちょうどいいと、明がなおも何かぎゃあぎゃあ言っている博士を遮ってハナの方を指さしてやると、博士はもう明のことなんか忘れたように振り返ってハナの頭をなで、必死でハナのご機嫌取りを始めた。案外この人は扱いやすいかもしれないと明は思った。

 

 

「いやーごめんごめん。ハナが嫁に行くと思ったらつい我を忘れてしまったよ」

 博士が恥ずかしそうに笑う。博士を落ち着かせて、ハナが口を挟んでくるのを訂正しながらちゃんと事情を説明し終わるまでに、何度ハナにチョップをお見舞いしてやったことか。十三発目までは数えていたけれど、それ以降はもうどうでもよくなって、途中で数えるのをやめた。

「まあ分かってくれればそれでいいんですよ」

 ともかく、これで終わったと明は思った。家出の原因だった博士ともこうして再会出来て、無事に仲直り出来たわけだし、もうハナが明の家にとどまる理由はない。ハナはこの研究所に戻って博士と暮らすんだろう。明はそれでいいと思った。二人は家族なんだから、家族は一緒に暮らすべきなのだ。明は平静を装って、淡々と話し終えた。

「ちゃんと話してみると、明くんはしっかりした男だね。これなら安心してハナを任せられるよ」

「え?」

 でも博士は明とは違うことを考えていた。

「だから言ったでしょっ。明はいい人だって」

「は?」

 そしてハナも。

 それはおかしい。ハナが家出したのは博士とケンカしたからで、仲直りしてしまった今、ハナが明の家にいる理由は何もないのだ。

「いや、もう家出の理由がなくなったんだから、お前はここでまた暮らしたほうがいいんじゃないか? 無理に家族と離れて暮らすなんて、そんなことまだしなくていいだろ」

 動揺していたのもあるし、家族というものに憧れも抱いていたので、明はちょっと強い口調でハナにそう言った。一緒に暮らしたいと言われて悪い気はしなかったけれど、それでもやっぱり家族同然の二人を離れ離れにさせてしまうのは嫌だった。それも自分がその理由だからなおさらだ。でもハナは、そんな明の心配を振り払うように、堂々と明の目を見て、そして笑った。

「もちろん明の言ってることも分かるよ。でも、あたしは明と一緒に暮らしてみて、今日久しぶりに博士に会って、それでもやっぱり明と暮らしていたいって思ったの。明はあたしと博士のことを家族だって認めてくれてるんだよね? それはすっごく嬉しい。あたしは明のそういうところが好き。あたしは、そんな明と新しく家族になっていきたいなって思ったの」

 そう言い切ったハナは、今まで明が見てきたどんなハナよりも優しくて、そして強かった。顔をすこし赤らめて、でもいつも頼りなさげに揺れる瞳はまっすぐと明を見つめていて、明はそんなハナの瞳に吸い込まれて、いつまでもその瞳から目を離せなかった。

「い、いやでも、こういうのは本人だけの問題じゃないだろ? は、博士の同意とか」

 あまりにストレートなハナの告白に、明はうろたえて、逃げるように博士を見た。むう、とハナがむくれる。この研究所に連れてこられてから、いつもとは立場が反対になってしまっている。明はハナのじっとりした目をまともに見ることが出来なくて、まるで皿を割ってしまったハナのように目を泳がせていた。

「ははは、明くんがひよっちゃう気持ちも分かるよ。だけど、さっきも言ったように、僕もこのことには賛成だ」

 ほら、とハナが嬉しそうに頷く。これで文句はないだろうといった顔だ。けれど、博士はそんなハナをなだめるように、まあ、と続けた。

「急な話だから無理に結婚だの将来だの考えるのは難しいと思う。だから、そういうことは抜きにしてさ、ただ今まで通りにハナを明くんの家に置くことだけでもお願い出来ないかい? 将来のことなんかはあとからゆっくり考えればいい。もちろん金銭的な援助だってちゃんとさせてもらうよ。それでどうかな?」

 えー、と文句を言ったハナをこらこらとたしなめて、博士もまた、明の目を見た。それは狂気のマッドサイエンティストとしてでも、ハナを溺愛するダメ人間としてでもない、娘を思いやる一人の父親としての顔だった。そして家族のいない明は、そういうのに弱かった。

「うーん……まあ、家に置いておくだけなら別に構わないですけど……」

 結局明は折れて、ハナと一緒に住むのを了承してしまった。どうもうまいこと博士に乗せられてしまったという気がしてならなかったけれど、それも悪くはないと明は思っていた。断固拒否、という姿勢なら、この人はきっと明の意思を尊重してくれていたんだろう。そういう人だというのは、これだけの短い時間でも分かった。それでも明が博士の頼みを断らなかったのはやっぱり、ハナがいなくなってしまうことに寂しさを感じていたからだった。博士がああ言ってくれているのだから、その言葉に甘えようと思った。いつだって大人に助けられてばかりだ。それが少し情けなくて、ありがたかった。

「やったーっ! これからもよろしくねー!」

 明がしみじみと感慨に浸っているのもつかの間、喜びを爆発させたハナが明に抱きついてきた。まるで子犬がじゃれるみたいに、頭をぐりぐりと明に押し付けてくる。そういえば初めてハナが明の家に住むことになった時も同じことをされた。あれからほんの一カ月ちょっとだけど、いろいろあった。そして、いろんなことが変わった。ずっと沈み込んでいた明を救ってくれたのは、他の誰でもないハナで、そんなハナを、明も大切に思い始めていた。明は初めて、ハナの頭を、そっと抱き締めた。どうしてか、そうしたいと思った。いつもは嫌そうに振り払われているので、ハナは少し驚いたのか、ちょっと動きが止まったけれど、またすぐに心地よさそうにぐりぐりしだした。ふと明と博士の目が合った。博士はなんとも言えない表情で二人のことを見ている。二人が一緒に暮らす許可を与えたのをちょっと後悔しているような顔だった。そんな博士に、明は心の中でお礼をした。

「さあ、そろそろ夕飯にしよう。今日はめでたい日だから、何かいいものでも食べに行こうじゃないか」

 博士が、妙に元気よく立ち上がる。その空元気の笑顔がやっぱりどこか寂しそうに見えたのは、きっと気のせいなんかじゃないと明は分かっていた。

 

 

 三人での外食が終わって、博士に家まで送り届けてもらう頃には、もうけっこうな遅い時間になってしまっていた。レストランに行く時に喜び勇んで博士の助手席を取ったハナは、一日はしゃぎ疲れたのか、帰りはさっさと後部座席に一人で寝転んで、たっぷり昼寝もしたはずなのに、またすやすやと寝息を立てている。街灯の少ない夜の街を車は走る。

「今日は悪かったね、怖がらせるような真似をして」

 運転席の博士が、明にだけ聞こえるように小声で話しかけてくる。その声からはなんとなくいたずらっぽさが感じられたけれど、街灯の灯りが弱くて博士の顔は見えない。

「ほんとですよ。心臓に悪い」

 どうせ暗くて博士の顔はよく見えないので、明はまっすぐ前を向いたまま答えた。広い間隔で置かれた街灯の光が、近づいては遠ざかる。

「でも、試しておきたかったんだ。君がどれくらいハナのことを大切に思っているのかを。僕が君を脅した時、あの時に迷わず自分の命を助けてほしいと言うようなら、もうこれ以上ハナと関わるのはやめたほうがいいと思ってね」

「どういう意味ですか? 自分の命を投げ出してでもハナを助けたいと言えないような奴は、ハナと一緒に暮らす資格がないっていうことですか? それなら俺にはその資格がありません。俺はあの時迷ってしまいましたから」

 博士の言葉に明は噛みついた。でもそれは自分を試した博士に、ではなくて、迷ってしまった自分自身に言い聞かせるみたいだった。

「何もそこまで言うつもりはないさ。それに、これからも誰かにそれを求めるつもりはない」

 明の内心を知ってか知らずか、博士は変わらない調子で飄々としている。君は真面目だねえ、と博士はからかうように笑った。

「じゃあどうして」

 自分の質問に答えてくれない博士に、明は軽く苛立ちを覚える。後ろめたさが明の口調を荒くする。明は拳をぎゅっと握りしめて、でも博士のほうは見ないで前だけを見つめる。意地と罪悪感が一緒になって明を襲う。

「……ハナはどれだけ生きられるか分からない」

 博士はぼそっと、苦々しくそう呟いた。その声にはさっきまでの飄々とした軽さはなかった。まるで大きな声で言ったらそれが本当のことになってしまうような、この世界に隠し事をしているような、そんなふうだった。

「君もハナの体のことは知っているだろう? ほとんど死んだような状態から、他の生き物の遺伝子まで引っ張ってきて、無理やりごまかしたような命なんだ。今は何の問題もないけれど、それがいつまでも続く保証なんかどこにもない。明日急に死んでしまっても全然不思議なことじゃないんだよ。むしろ、今こうやってちゃんと命としてハナが機能しているのが不思議なくらいさ。だから、試したかったんだ。自分の命と天秤にかけてみるくらいには、ハナの存在が大切なものであってほしいと思ってね」

 博士は自嘲ぎみに、また乾いた笑い声を上げた。明はまだ博士の顔を見れずに、前だけを見ていた。目の前の信号が赤に変わる。車はゆっくりとスピードを落として、止まった。

明くん、と博士は明の名前を呼んだ。仕方ないので明は博士のほうを見る。博士も明に顔を向けている。こういう言い方はあんまりしたくないんだけどね、と博士は前置きして、

「君は合格だよ。少しの間だけでもいい。嫌になったら研究所に送り返してくれても構わない。だから、ハナのことをよろしく頼むよ」

 そう言って、明に向かって頭を深く下げた。

 こんなふうに大人に頭を下げられることなんて初めてだ。明は戸惑う。何と言って答えたらいいのだろうか。何も立派なことは言えそうにない。迷ったあげく、結局明は今の正直な気持ちを言うことにした。

「俺、両親が死んでからずっと一人暮らししてたんですよ。そんなとこにハナがやってきて、ここ最近は、ハナのおかげで騒がしかったけど楽しかったと思ってます。まだ命をかけてとかそんなことは言えないけど、俺も、だんだんハナのことを大切な存在だと思ってきました。だから……」

 と、そこで明は口ごもった。こういう場面に慣れていないものだから、なんとなく言いたいことは頭の中にあるのだけれど、それをどう表現していいかが分からない。うーんと悩んでいると、博士も頭を上げて不思議そうに明を見てくる。

「まあ、とにかく、ハナのことはお任せください」

 適当な言葉が見つからなかったし、ちょうど信号が青になってしまったので、明はとりあえずそれだけ言った。なんだいそりゃ、と博士が笑いながらギアを入れて、車を発進させた。その笑い方はさっきの悲しそうなのとは違って、本当におかしそうで、それで明は安心した。

 それから二人は家に着くまで、明の学校の話だとか博士の研究の話をして盛り上がった。ハナに同年代の友達が出来たことを、博士は特に喜んでいた。やっぱり親なんだなあと思った。ちゃんと話してみるとやっぱり博士は頭がいいけど変な人で、ハナが世間知らずなのも、あんなに天真爛漫なのも、この人のおかげなんだなと明は思った。

「さて、僕らの眠り姫を起こすとしましょうか」

 明の家の前に車を停めると、博士は後部座席で眠るハナに声をかけた。何度か声をかけて、運転席から身を乗り出して体を揺すってやって、ようやくハナは目を覚ました。きょろきょろ辺りを見回して明の家に帰ってきたことを理解すると、のっそりと車から出ていく。

「この調子だと夜眠れなくて駄々をこねるかもしれないけど、そういう時はホットミルクを飲ませてあげるといいよ」

 車から降りる前に明を呼びとめて、博士がそっとアドバイスをくれた。

「分かりました。そうします」

「それと、今は君のことを信頼してハナのことを預けるけど、もしハナを悲しませるようなことがあったら……分かってるね?」

「はは……」

 ただ、最後のひと言だけは博士の目に狂気が宿っていて、ぞくりと背すじが震えた。今後はもう少しハナに優しくなろうと明は決めた。

「もーっ、まだー?」

 ハナが助手席の窓をつついて明を急かす。

「ほら、行ってあげなよ」

「はい。今日はどうもありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。あ、それと今日の話はハナには内緒でね。僕はハナの前ではずっといい父親兼天才マッドサイエンティストでなきゃいけないから、あんな暗い顔は見せられないんだ。頼んだよ」

 そう冗談めかして笑う博士には、男としてのプライドのようなものがあって、ハナのことを何よりも大切にしているのが分かって、明は改めてこの人からハナを任されることの重みを実感した。

「はやくー」

 外からハナがぶうぶう言っている。それじゃあね、と博士にぽんと肩を叩かれて、明は車から降りた。二人で車を見送っていると、角を曲がる前に博士の車のブレーキランプが五回点滅した。何かあったのかと二人して首を傾げていると、そのまま車は走っていってしまった。

「なんだったんだろうね、最後の」

「さあな。なんかのサインみたいに見えたけど」

「あとさっき、車の中で博士と何話してたのっ」

「秘密だよ。男同士の秘密」

 明は適当にハナをあしらうと、玄関の鍵を開けた。後ろで抗議の声を上げるハナがなんだか面白い。よく恵子とひかりが明たちをのけものにして内緒話をしているけれど、明はその気持ちが少し分かった気がした。

「いいからさっさと中に入れよ、居候」

 明は先に家に入ると、後ろを振り向いてそう言った。いつも通りのぶっきらぼうな声だったけれど、一つだけ、違うところがあった。ハナはぶうぶう文句を言っていた口を開けたままぴたりと動きを止めた。その目はびっくり見開いている。

「えっ? 今なんて言った? なんて言った?」

「うるさいな。もう遅いんだから大きな声出すな」

「居候っ! ペットじゃなくて居候って! これはもう実質お嫁さんってことだよねー!」

 やがてハナは驚きから立ち直ると、大喜びで踊り出した。意味不明な理論を展開しながら小走りで、そのまま明に抱きついてくるけれど、さっきと違って万全の態勢の明に、今度はあっけなくかわされる。

「むう、まっ、お嫁さんはまた今度ってことで」

 また今度、の意味が明にはよく分からなかったけど、疲れていたのでそれには触れないことにした。居候にランクアップしたと喜ぶだけ喜んだあと、博士の言った通り眠れないと騒ぎ出したハナにホットミルクを作ってやっているうちに夜は更け、長い長い一日の、ようやく終わりがそこまでやってきて、明は、ほっと一息ついて、肩の力を抜いた。

 

 

次の日の朝も、ハナの上機嫌は続いた。なんたってハナにとっていいことが二つも重なって起こったのだから、それは当然のことだった。博士に明とのことを認めてもらったことと、明がようやくハナのことをペット扱いじゃなく、ちゃんと人間扱いにしてくれたこと。まだまだ居候だけど、ペットなんて言われてた頃に比べたら大した前進だと思う。動物扱いから人間扱いになったんだから、そこからお嫁さんになるのなんてあっという間に違いない。ハナは明るい未来に思いを馳せて嬉しくなった。

「それでねっ、最初は博士がすっごい怒ってたんだけどね、いろいろ話したらちゃんと明は優しいって分かってくれて、これからもここに住んでいいよって言ってくれたのー」

「へえ、昨日一日でそんなことがあったんだ。でもよかった。ハナちゃんが博士と仲直りしたらもう研究所に帰っちゃうかと思ってたから。ここに残ってくれて、私も嬉しいな」

 いつも通り二人を起こしに来てくれた恵子に、朝ごはんを食べながら昨日あったことを報告する。やっぱり恵子は一緒に喜んでくれるから優しい。それに比べて、明はほんとは優しいくせに、いつも無愛想にしているから困ったものだ。ぼんやりとみそ汁を飲む明を見て、ふん、とハナはウインナーにかじりついた。せっかく昨日はハナが居候に昇格した記念すべき日だったというのに、明の態度はまるで変わりない。ハナがこんなに喜んでいるんだから、恵子みたいにちょっとくらいは楽しそうな顔をしてくれたっていいのに、とハナは思う。

「ほら明、早く食べないとまた遅刻するよ」

「そうだよっ。はやくはやくー」

 ぼーっとしていてなかなか箸が進まない明を、二人で急かす。明は自分一人で何でも出来ると思っている割に、実はそうでもないところがけっこうあって、そこがかわいいとハナは思う。お弁当は前の日の夜にだいたい準備してるくせに、朝に弱くて結局遅刻するところとか、料理の前はこれでもかと手を洗うのに、ハンカチを忘れて困るところとか。そういう明のダメなところをフォローしてあげるのがお嫁さんとしての自分の役目かな、とハナは勝手に思っている。

「ほらっ、食べ終わったら歯を磨くー」

「分かってるって。朝からうるさいな」

 ハナに急きたてられてだらだらと洗面所へ向かう明の後ろ姿を見て、ハナと恵子は顔を見合わせてくすりと笑う。同じ苦労をしてきたどうし、言葉がなくても通じ合えるものがあるのだ。

「ほんとに朝は全然ダメなんだから。困っちゃうよー」

「でも、あれでもよくなったほうだよ。ハナちゃんが来る前は、眠くて動きたくないから先に行けって言われて、しょっちゅう私一人で学校に行ってたもん。やっぱりハナちゃんはすごいよ」

「そ、そうかな? えへへ」

 明は身支度をする他に、寝坊しようが遅刻しようが毎朝仏壇に線香をあげるので、けっこう時間がかかる。明を待つ間、二人はいつもちょっとしたお喋りをする。話すことは、だいたい明のことだ。ハナはあんまり外の世界のことは知らないし、それに何よりも明のことが大好きだから、自然と明のことばっかり話してしまう。

 でも、とハナはその日、ちょっと気になった。ハナもそうだけど、恵子もいつも明のことばかり話している。それって、どういうことなんだろうとハナは思った。ハナに合わせて、ハナが分からない話はしないように、あえて明のことを話題にしてくれているのか、それとも、ハナと同じように、明のことが好きだから、自然に明の話をしたくなっちゃうのか。もし恵子も明のことが好きだったらどうしようと思う。もしそうなら、これは由々しき事態である。少なくとも現在の日本の法律だと、明と結婚出来るのは一人だけだ。ハナはちらりと恵子を見る。いつもと変わりない恵子だ。

「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」

 恵子もハナの顔を覗き込んでくる。ハナは隠し事がうまくないので、ごまかそうとしてもすぐにばれてしまう。恵子がハナを気遣うような顔をしている。恵子のことだから、ハナの具合が悪くなったのか、とか考えてくれているんだろう。別に何の異常もないのに恵子に心配をかけて、ハナはちょっと申し訳ない気持ちになる。

そうだ、どうせうまく隠せないんだから、いっそのこと今聞いてみよう。ハナは駆け引きなんか出来ないし、思ったことはすぐに口に出してしまうから、はっきりしないままなのは嫌だった。簡単なことだとハナは思っていた。ただ、『恵子も明が好きなの?』って聞くだけ。たったそれだけのこと。

「あー、あのね……」

 でも、たったそれだけの簡単なことが、どうしてか今のハナにはとっても難しくて勇気のいることだった。ずっと、恵子には何でも喋っていたのに、今は恵子の本心を知るのが怖いと思っている。ハナは言葉を続けられなくて、また黙ってしまった。恵子が不思議そうに首を傾げる。

「おーい、準備出来たぞ。行こうぜ」

 ぼやぼやしているうちに、身支度を終えた明がドアから顔だけ出して恵子を呼んで、すぐに顔を引っ込めていなくなった。多分もう玄関に行ったのだろう。恵子はそれに返事をすると、ハナのほうを心配そうにまた見てきた。

「今はもう学校行かなきゃいけないけど、もし何かあったら何でも言ってね。いつでも聞くから」

「う、うんっ。大丈夫大丈夫、大したことじゃなかったし」

「そう? それならいいけど……」

「うんうんっ。ほら、早く行かないと遅刻しちゃうよー」

なおも心配そうにハナを見つめる恵子を、ハナは半ば無理やり玄関まで押していき、そのまま送り出した。

「いってらっしゃーい!」

 恵子はまだハナのことを気にしていたふうだったけれど、ハナが玄関から元気よく手を振るのを見ると安心したのか、小さくハナに手を振り返して、恵子のことなんかお構いなしに歩いていく明を小走りで追いかけていった。ハナは揺れるポニーテールの後ろ姿が見えなくなるまで玄関に立ち続けて、冷たい風に吹かれてくしゃみを一つすると、震えながら家の中に戻った。

 その日、ハナは昼近くまでソファでごろごろしたり、クッションを抱きしめてみたり、意味もなく唸り声を上げたりして、有意義に無為な時間を過ごした。

恵子にうそついちゃった。

罪悪感がちくりとハナを責める。どうしようどうしよう、と慣れないことに頭を使っていると、ぐう、とお腹が鳴る音がした。風情のない奴め、とハナは自分のお腹を恨めしそうに見るが、そんなことをしたところで空腹はおさまらない。時計を見てみると、もういい時間だ。

「お昼ご飯、作ろー」

 考えたって何も思いつかないし、どんな時でもお腹は空く。ハナはのっそりとソファから起き上がる。

 そろそろ明もお昼休みかなあなどと考えながらキッチンへ行くと、明のお弁当箱がぽつんと裸のままで置いてあった。真っ黒で四角い、男の子らしく何の色気もない、ただ入る量だけを重視した、明のお弁当箱。もしかして、と思って開けてみると、案の定中身はちゃんと入っている。どうしてここまで作ったのに、最後に鞄に入れるのを忘れちゃうんだろう。ハナはいつも不思議に思う。

「どうしよう、これ」

 今までは明に外に出ちゃいけないと言われていたので、明の忘れ物を見つけても、何も出来ないでただ明が帰ってくるのを待っていた。でもそれは、ハナが博士に見つかってしまわないようにするためだったんだし、もう博士と仲直りした今なら、別に忘れ物を届けに行くくらいならいいんじゃないかとハナは思った。お弁当箱を忘れた日、明はいつも帰ってからキッチンを見て、やっぱりここに忘れたかと嘆いていた。ハナはこのお弁当箱を届けたら、明は喜んでくれると思った。

「やっぱりお弁当がないとお腹空いちゃうよねっ。うん」

 ハナは自分に言い聞かせるように呟くと、部屋に戻って服を着替え始めた。一度決めたら後は早い。さっさと適当な服を着ると、お弁当箱を鞄に突っ込み、明のお古のスニーカーを履いて、家を出た。南の空に太陽がにじんでいる。本日は晴天なり。寒いけれど、やっぱり外はいい。早くしないと明のお昼休みが終わっちゃうかも。ハナはいつも明たちが歩いて行く方向に、元気よく走り出した。

 

 

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る。

「じゃあ今日はここまで」

数式で埋められた黒板を前に、教師が午前の部の終了を宣言する。教室の空気が緩み、購買に向かう生徒が廊下にごった返す。学校中がざわめき、活気づく。明は自分の席に座ったまま軽く伸びをして、それから机の脇に掛けてある鞄を開き、中に入っているはずの弁当箱を探した。

「……ない」

 弁当箱を家に忘れてきてしまったと明が気付いたのは、その時だった。またやってしまった。明は自分の朝の弱さとそそっかしさにため息をつき、これじゃハナのこと言えねえな、と苦々しく呟く。

「購買に行くか」

明は小さく肩を落とし、今から行っても大したものは残っていないと分かりながらも、購買に向かう人だかりの中に仕方なく加わった。

「あー、またお弁当忘れたの?」

 スタートで出遅れたせいでろくなものが買えず、落胆して教室に戻った明を出迎えたのは、恵子とひかりの呆れたような顔だった。

「ああ。購買は混んでるし、今日はついてないな」

「ついてるついてないじゃなくて、ちゃんと確認しない明が悪いんでしょ」

「しょうがないだろ。朝は眠いんだ」

 恵子の小言を受け流しながら、明は自分の席に戻る。自分は売れ残りの豆パン一個しかないのに、女子二人のきちんとした弁当はあまりに目の毒だ。今日は帰りにコンビニでも寄って、何か買おうと明は思った。そういえば、今は何かのキャンペーンで、おまけに小さいフィギュアが付いてくるんだった。ちょうどいいし、ハナに持って帰ってやろう。明が目の前の豆パン一個という現実から目をそらし、帰り道の買い食いとハナの笑顔に思いを馳せていると、後ろから今度はひかりに声をかけられた。

「明、私たちと一緒にお昼食べない? 恵子がお弁当分けてくれるって」

「ちょ、ちょっとひかり」

「ん? いいのか? なんか恵子は嫌がってるように見えるけど」

「いいから」

 どうしてか恵子が妙に焦っていたけれど、何か食べるものを分けてくれるというなら文句はない。明は素直に二人について行き、近くの席のイスを拝借して、二つくっつけられた机のうち、恵子が使っている側に座った。

「ちょっと、なんでこんなに近くに座るのよ」

「なんでって、お前が弁当分けてくれるんだろ?」

 おかしなことを言うなと思いながら、とりあえず明は自分の豆パンをかじった。恵子は無言で自分の弁当をつつく。明のパンが半分ほどなくなり、そして全部なくなった。空になった手をちらりと見た後、明は恵子に目を向けた。恵子と目が合った。目が合った瞬間に恵子の顔が真っ赤になる。

「な、何よ」

「弁当分けてくれるんじゃないのか?」

「ま、まだ心の準備が……」

 恵子は明から顔をそむけてもごもごと言葉を濁す。たかが弁当に何の心の準備だろうと明は首を傾げる。

「恵子。そろそろ覚悟を決めたら?」

「んー、だって……」

 ひかりに促されても、恵子はまだぐずぐずと迷っている。耳まで真っ赤にして、助けを求めるようにひかりを見る。ひかりはその迷子の子犬のような恵子の視線には応えず、無言で、その鋭い眼光で恵子を見つめている。

「ああ、別に嫌だったらいいぞ。ジュースでも買ってごまかすから」

 二人の無言のやり取りにいたたまれなくなって、ついに明はイスから立ち上がった。豆パン一個だけでは正直物足りないけれど、我慢出来ないというほどでもない。期待を裏切られた悲しみを胸に、やっぱり帰りにコンビニに寄るかと思いながら明が自分の席に戻ろうとすると、ようやく恵子が切羽詰まった声を上げて、明の制服の袖をつかんで、思いっきり引っ張り、無理やり明をもとのイスにまた座らせた。

「あげる! あげるから! だから座って!」

「お、おう。そうか」

 必死の形相の恵子にひるみ、明は言われたとおりにする。だけど、そこからまた恵子は固まってしまい、明はどうしていいのか分からなくなる。困惑の表情で、一体どういうことなのかとひかりに目で尋ねると、いいからそのまま、とひかりも目で返事をしてきた。気がした。

「んー……はい!」

 そして、突然恵子が顔を真っ赤にしたまま弁当箱の卵焼きを箸でつかんだかと思うと、その箸は次の瞬間に明の目の前に突き付けられていた。よっぽど恥ずかしいのか、恵子の大きな目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。ひかりが満足そうに頷くのが明の視界の端に写った。

「……いや、なんだよこれ」

 予想外のことに、明はどうすることも出来ずに、ただ目の前に突き付けられた卵焼きと恵子の顔を交互に見る。どうしてまたこんなところでこんなことを。確かに、明はずっと恵子に料理を教えてきたから、自分がお玉ですくったスープを恵子に味見させたことくらいあるし、その逆もよくあった。だから別に、今さら恵子の使った箸で何かを食べるくらいで特別に意識するようなことはないのだけれど、でも、今日は状況が違う。ここは学校なのだ。幸い、ひかりの他にはまだ誰もこの異様な光景に気付いている生徒はいない。やめるなら今のうちだ。明はどうにかして恵子を説得しようと試みる。

「おい、何の冗談だよ、恥ずかしい。ここは学校だぞ」

「恥ずかしいでしょ? 何回言っても明がお弁当を忘れてくるから、だからこれは明への罰なの! これくらいしなきゃ明の忘れ物は直らないんだから!」

 それはおかしい。明はそう思ったけれど、恵子はさらに箸を明のほうにぐいっと押し付けてくる。明は体を引いて箸から逃れようとするが、イスの背もたれが邪魔になって逃げ切れない。

「明」

 横からひかりの声がした。助け舟でも出してくれるのかと期待して明がそちらを向くと、いつも通りの冷静な表情のままサムズアップをしているひかりがいた。

「女に恥をかかせるもんじゃないよ」

 ひかりはそれを言うと満足したのか、サムズアップをやめてペットボトルのお茶を飲みだした。ひかりに何かを期待したのが間違いだったと、明は少し前の自分を責めた。ひかりはこういう時にしれっと恵子をけしかけて明を困らせるような性格だということを忘れていた。ああ、今日は忘れ物が多いなと、いまだ目の前にある卵焼きを見つめながら、明はまたため息をついた。

「分かった分かった。ちゃんと食うから」

 明はどうすることも出来ず、覚悟を決めて身構える。

「これでいいのか?」

 明はぶすっとした顔でひかりを見る。ひかりはお茶のペットボトルを持ったまま、再び無言のサムズアップでそれに答えた。どうやら明は女に恥をかかせずにすんだらしい。

「そ、それでは……」

 恵子がおそるおそる、箸を明の口の前に持ってくる。ご丁寧に、恵子の左手はちゃんと卵焼きの下にそえられている。食べると決心はしたものの、実際にやるとなるとやっぱり照れくさい。それは恵子も同じようで、さっきまでよりもさらに顔を赤くして、卵焼きをつかんだその箸は緊張からかぷるぷる震えている。

「あーん」

 しかし、そこでまたしてもひかりが突然口を挟んだ。卵焼きが目前に迫り、あとは明が口を開けてそれを受け入れるだけ、という状態だったけれど、二人はその声に動きを止めた。ひかりも恵子の弁当が食べたかったのだろうかと思ったけれど、そうではなかった。むしろそうであったほうがどれほどよかったろうか。

「恵子、それをやる時は、ちゃんと、あーん、って言わなきゃダメじゃない」

 ひかりはまるで、明と恵子が初歩的な正しい作法を守っていないのを咎めるように、廊下を走っちゃダメじゃない、と注意するような声音でそう言った。その顔は、心から楽しそうににんまりとしている。この期に及んでまだそんなことを言うのかと、明は頭を抱えたくなる。

「そうか、そうだよね、うん」

しかし恵子はもういっぱいいっぱいになっているのか、ひかりのその言葉に何の疑いも持っていないようで、素直にひかりの言うことを聞いて、気合いを入れ直している。

「おい、ちょっと待てよ。こんなの……」

「明。情けないよ」

「くっ……」

 とにかく恵子に落ち着いてもらおうと試みた明だったけれど、ひかりの冷たいひと言でばっさりとやられてしまう。ひかりの見下したような目が痛い。やっぱり、もう心を決めるしかないと明はついに完全に諦めた。抵抗するのをやめて、おとなしく恵子が箸を差し出してくるのを待つ。

「……じゃあ、いくよ。はい、あーん」

 周りをきょろきょろして誰も二人に注意を払っていないことを確かめると、恵子は再び明に向けて卵焼きを差し出した。その頬はまだ赤く染まっているけれど、今度は箸は震えていない。しっかりとした手つきで、恵子はほとんど完璧と言っていいあーんの姿勢を取っていた。

けれど、よし、と一度自分に気合を入れ、明が口を開けて卵焼きを頬張ろうとした時、何やら急に教室の外が騒がしくなって、恵子も明もそっちに気を取られる。二人はあーんの体勢のまま首だけ動かして廊下のほうを見た。何の騒ぎだろうと、しばらくそちらの様子を覗っていると、明はなぜか、とても聞き覚えのある声が廊下から響いてきた気がした。そう、毎日飽きるほど聞いている、我が家の居候のような――。

「ねえ明、今聞こえてきた声って……」

 恵子も同じことを思ったみたいだ。だけど明はそんなこと認めたくなかった。まさかあいつが勝手に学校まで来ているなんて。そうだ、きっと声がよく似た誰かに決まっている。そうに違いない。だってあいつは明の家で留守番をしているのだから。明の言いつけを守って、おとなしく昼寝でもしているに違いない。

「あっ! 明ー!」

 しかし、そんな願いもむなしく、その耳になじんだ声の持ち主が、教室の入り口から元気よく明の名前を呼んだ。やっぱりそれはハナの声で、そこに立っている姿は、やっぱりハナだった。ハナは教室まで案内してくれたのだろう見知らぬ生徒に笑顔でお礼を言っている。制服だらけの廊下に一人私服でいるハナは、その元気な仕草と整った容姿もあいまって、かなりの注目を集めている。

「明お弁当忘れたでしょー、届けに来たんだけ……ど……」

 ハナは周りの視線も気にせずに明たちの席に駆け寄ってくるけれど、その途中で急にスピードを落とし、明たちからはまだだいぶ距離があるところで立ち止まった。そして、あーんの体勢で固まっている明たち二人を見て、むっつりとふくれっ面になる。

「届けに来たんだけどー、あたしはお邪魔虫だったのかなー、明?」

 ハナの責めるような視線に、明と恵子は自分たちが今どんな格好をしているのかを思い出して、慌てて姿勢を正す。でも、それぐらいのことでハナのふくれっ面は元に戻ってくれない。ハナは暗い顔でつかつかと明に歩み寄ると、やや乱暴に弁当箱を明の前に置いた。

「ふーん。お弁当がないと明が困るかと思ったから届けに来たのに、明はそうやって女の子たちをはべらせて、その上あんなことまでさせてるんだ。ふーん」

イスに座ったままの明を、腕を組んで冷たく見下ろし、まるで夫の浮気の証拠を見つけた妻のように意地悪く、嫌みったらしくハナはそう言った。ハナのことを遠目に観察していたクラスメイトたちがにわかにざわめき立つ。無理もない。はた目からすれば、突然現れた私服の美少女が生徒会長と痴情のもつれでどうにかなっているようだぞ、という状況なのだ。当然のことである。ただ一人、女の子たちって私も含まれてるのかな、などとのん気に呟くひかりを除いたクラス中が、明と恵子、そして突然現れた謎の美少女の次の動きに注目していた。好奇の目とひそひそ声が明を襲う。明は焦っていた。いつも無愛想で友達が少なく、可もなく不可もない仕事をするだけの生徒会長である明にとって、こんなにクラスメイトたちから興味津々の目で見つめられているという事態は、全校生徒の前で決められた原稿通りにスピーチをすること以上のプレッシャーを感じる一大事だった。その嫌な緊張感がますます明を無愛想にさせて、余計なひと言をつい口走ってしまうほど、明は平常心を失ってしまっていた。

「お、俺が学校で何をしてたってお前には関係ないだろ。それに、いつも勝手に外に出るなって言ってるのに、どうして学校に来たんだ。俺は弁当を届けてくれなんて頼んでないだろ」

「っ……」

 明のその言葉を聞いたハナは、目をはっと見開き、俯いた。唇をとんがらせたまま足元の一点を見つめ、黙り込む。いつの間にか、こそこそと話していた周りのクラスメイトたちも静かになっていて、少しの間クラス中を沈黙が包んだ。ぷわーん、とどこからか吹奏楽部のロングトーンが聞こえてくる。その間の抜けた音と、廊下から聞こえる他のクラスのざわめきが、むなしく明のクラスに響いた。ハナの顔にだんだんと赤みが差し、ぎゅっと結んだその唇はふるふると震えている。さすがに言いすぎたと明は悟ったけれど、それはあまりにも遅すぎた。

「だったらこれからずっと恵子にあーんしてもらえばいいじゃんっ! 明のばかー!」

 ハナは明を睨みつけて思いっきり叫ぶと、そのまま踵を返して教室から出ていってしまった。クラスは呆気にとられて誰も何も言えずにいたけれど、ハナが履いているスリッパのぱたぱたした足音が聞こえなくなると、みんな一斉に明のほうをちらちら盗み見ながら噂話を始めた。

「今のはないよ、明」

「わ、分かってるよ」

 ひかりが冷静に、そして端的に明の所業を断じる。ひかりのその切れ長の目には、怒りとか焦りとかそういう感情は一切こもってはいなかった。ただ、呆れていた。明は何も言い返せない。

「どうしてああいう言い方するのよ……」

 恵子も頭を押さえて机に肘をつく。恵子のほうも、ほとほと呆れかえってどうしようもないといった感じの態度だ。とても、お前にも原因の一端があるだろう、などと軽口を叩けるような雰囲気ではなかった。そんなことを今更言ったところでどうにもならないのは明も分かっていたし、そうやって責任逃れをしようとしても、ハナを傷つけた直接の原因は明の無神経な物言いだということは誰の目にもはっきりしていた。昼休み終了の予鈴が鳴るまで、明はクラス中から、また騒ぎを聞きつけた他のクラスの連中からの容赦ない好奇の目にさらされ、言いわけの一つも出来ずに、針のむしろに座らされた気分を味わう羽目になった。

「おーい明、聞いたぜー、白昼の愛憎劇! まさか親友のお前がリアル昼ドラの主人公になるとは、俺も鼻が高いぜ。あ、ちなみに今のやつ、鼻が高いとハナちゃんをかけてるから。うまいだろ?」

 予鈴が鳴って生徒会室から帰ってきた康介は開口一番そう言ってげらげら笑った。いつも通り生徒会室にこもって勉強していたはずの康介にまでもう知られているとは。この様子だと、もう少なくとも明の学年にはほぼ知れ渡っているんだろう。小さな高校だから、みんなこの手のゴシップに飢えている。まして、生徒会長の明と、副会長の恵子が絡んでいる話だ。しばらくは全校生徒の話題の種はこれで決まってしまった。明はよりいっそう居心地が悪くなるのを感じて、康介の言葉にもまったく反応することが出来なかった。

「あれ? おい、明どうしたん? まさか、マジ?」

 何も言い返してこない明に、康介は柄にもなくひるんだ。ひかりが黙って頷き、康介の質問に答える。いつも軽快に場を盛り上げてくれる康介も、さすがに今日はどうすることも出来ずに、明のクラスは異様な雰囲気の中、午後の授業に突入した。

 日直の号令で、最後のホームルームが終わる。こんなに午後の授業を長く感じたのは初めてかもしれない。明は鞄に荷物を詰めながら、大きく息を吐いた。教師が荷物をまとめて出ていき、クラスの緊張は緩んだけれど、教室の中にはまだざらりとした違和感が残っていた。いたるところから視線を感じる。ほんの二時間ほど前のことをみんなが簡単に忘れてくれるわけないというのは分かっているが、やっぱりこうも露骨な目で見られるのは気が滅入る。アルバイトもあるし、さっさと帰ろうと思っていると、恵子が明の席に手をついた。やっぱり恵子も責任を感じているのだろう、思いつめたような顔で明を見る。

「明、これからどうするつもり?」

 これからまっすぐバイト先に行くつもりだ、なんて返事は望んでいないんだろうと明は思った。さすがに、今この状況でそんなことを言うほど明は馬鹿じゃない。

「バイトが終わったら、ちゃんと謝るつもりだよ。聞いてもらえるかは分からないけどな」

 明は立ち上がり、鞄をつかみながらそう答えた。黒板の上に掛けられた時計をちらりと見る。まだアルバイトの時間までには余裕があるが、今日は早くこの教室から逃げてしまいたい。

「私も、ハナちゃんに謝りたいの。やっぱり、ハナちゃんの気持ちを知っててああいう悪ふざけをした私にも原因があるわけだし……」

 そう言うと恵子は俯いた。自分のしたことを後悔しているのかもしれない。でも、明はその申し出を断った。

「まあ確かに事の発端はそうかもしれないけど、一番悪いのはハナの気持ちを考えないであんなことを言った俺だ。俺がどうにかしなきゃいけない」

「でも……」

「ハナはお前には怒ってねえよ。ハナはあんなことでそう怒るような奴じゃない。俺の態度がまずかっただけだ。と思う」

「じゃあせめて明日の朝でいいから。明たちを起こして、その時に謝る。それくらいならいいでしょ?」

「……俺が許してもらうまで、恵子もうちには来ないほうがいいと思うんだけどな」

 恵子の申し出に、明は困惑する。明としてはこのことは自分一人で解決しないとだめだと思っているし、恵子がいるとハナに素直な態度をとれない気がして不安だった。

「……なら、今日中に仲直りすること! 明を朝起こすのはハナちゃんが来る前からずっと私の仕事なんだから、これだけはハナちゃんにだって譲れないよ。絶対に」

 その不安を察したのか、恵子はびしりと明に人指し指を突き付けて、そう命令した。気持ちを切り替えたのか、もういつもの力強い目に戻っていた。こうなった時の恵子は、なかなか止められない。

「分かった分かった。とにかく、努力はするよ」

 不安ではあったけれど、恵子の剣幕に押されて、明は折れた。まあ、だらだらと長引かせるよりも明確な目標が出来てよかったかもしれない。明はそう思うことにした。

「じゃあそういうことだからさっさとバイトに行く! ただでさえ無愛想なんだから、いつまでもぐだぐだ悩んでないで愛想だけでもよくしなきゃ!」

 恵子は妙に元気よく明の背中を叩いた。ばしばしと背中に軽い衝撃を受ける。痛みは感じなかった。恵子の力ならもっと痛くも出来るだろうに、あえて明を気遣って手加減してくれているのが分かる。でもその優しい攻撃のほうが、今の明には辛かった。

 明はどこでも買い食いしないで、まっすぐアルバイト先に行った。ハナが届けてくれた弁当は、アルバイトが始まる前に食べた。弁当箱のふたを開けると、昨日の夕食の残りを詰めたおかずと、そして海苔で作られたいびつなハートが上に乗ったご飯が入っていた。自分用に作った弁当にハートマークなんか乗せない。自分のためにこんなことをしてくれたハナの気持ちを思って、そしてそれを踏みにじられた時のハナを思って、明はよりいっそう後悔を深めた。一口食べるたびにハートの形が崩れていくのが、言いようもなく悲しかったけれど、だからといって残すわけにもいかず、胸がつまりそうになるのをこらえながら、恵子に押された背中を情けなく丸めて、明はアルバイトが始まる時間いっぱいまでかかって、どうにか全部食べ終えたのだった。

 

 

 アルバイトを終えた明を待っていたのは、温かい夕食と、冷たいハナの視線だった。ハナはおかえりなさいだけは言ってくれたけれど、それ以外は一切余計なことは言わずに、テーブルに夕食を並べていった。ハナはもう先に一人で済ませてしまったらしく、食器は明の分しかない。今までは明が帰ってから二人で一緒にテーブルを囲んでいたのに、今日は、ハナは明のことを待っていてくれなかった。

「あたし、お風呂に入ってくるね」

 明の分の夕食を並べ終えると、ハナは返事も待たずにリビングから出ていった。今日はとことん明と一緒の空間にいたくないみたいだ。今日は、で済めばいいのだけれど。明はハナの背中を見送ると、ため息を一つついて、もそもそと一人で食べ始めた。久しぶりに一人で食べる夕食は、びっくりするほど味気なくて、そしてそれは、ハナが味付けを失敗したからだとかそういう理由なんかじゃないことくらい明は分かっていて、風呂場からかすかに漏れるシャワーの音が、なんだかいつもより遠くに聞こえた。

「ハナ。今日のことで話したいことがある」

 ハナが風呂からあがるのを待って、ハナに声をかけた。まだ乾ききっていない栗色の短い髪をバスタオルに包んで、ハナは大儀そうに明を見た。ハナの表情はお世辞にも明との会話に乗り気であるようには見えず、いつもは可愛らしいそのたれた目が、今は気だるげな印象を強めている。

「んー? なにー?」

 ハナは濡れた頭をバスタオルでくしゃくしゃといじりながらではあったが、返事はしてくれた。一応、その声に怒っているような色はない。明は少しほっとして、話を続ける。

「その、今日ハナが弁当を届けに来た時のことだ」

「ああ、そのことね。うん。ごめんね、明の言いつけ破って勝手に学校に行ったりして。これからはもうしないようにするから。あたし、今日は慣れないことして疲れちゃったから、もう寝るね。おやすみー」

「お、おい、ハナ」

 ハナは一気にそれだけ言うと、ぷいとそっぽを向いて、またリビングから出ていってしまった。取り付く島もない。ハナが階段を上る音が聞こえてくるけれど、それはいつもの軽やかな足取りとは全然違う無機質な音だった。ハナの口調が怒っていないからってすぐに安心した自分の馬鹿さ加減に明は腹が立った。ハナは、怒ってもくれなかった。自分がどれだけのことをしてしまったのか、ようやく思い知った。

 今日はもう、ハナは部屋から出てきてはくれないだろう。明はとりあえず落ち着いてこれからのことを考えようと思い、キッチンの戸棚からティーバッグを取り出し、紅茶を入れた。お湯を注いだカップにティーバッグを入れてしばらく待ち、そして引き上げる。そういえば、ハナが来てからはずっとハナが紅茶を入れてくれていたんだった。たったこれだけの作業でも、明はもうハナと仲良くしていた頃のことを懐かしく感じている。

カップに口をつけて、一口目で明は違和感を覚えた。いつもの味と違う。もっと言うと、いつもよりまずい。ハナが来る前の、自分で紅茶を入れていた頃と変わらない方法で入れたのに。明はカップから口を離して訝しげにそのカップを見つめて、そしてどうしてなのか気が付いた。つまりハナは、ただのティーバッグの紅茶をおいしく入れるために、それを飲む明のために、明が知らないうちに、何か工夫をしてくれていたのだ、と。

 紅茶の入れ方は、ハナが明の家に来て最初にちゃんと出来るようになったことだった。それから食器の洗い方を覚えて、基本的な料理や、掃除、洗濯の仕方、と徐々に進歩してきた。料理も、掃除洗濯も、一生懸命ではあるけどもまだまだ手際が悪くて心もとないと明は思っていた。まだまだ自分みたいに出来るようになるには時間がかかると。でも、ハナが入れてくれた紅茶は、明が自分で適当に入れたものよりもずっと、おいしかった。何の気なしに飲んでいた紅茶に、ハナがどれだけの手間と気持ちを込めてくれていたのか、明はそれを理解して、改めて自分がハナにしたことを考えて、右の拳をどんとテーブルに振りおろした。その衝撃で紅茶が少しこぼれる。

「バカか、俺は」

 誰にも届かない思いを吐き捨てて、明は、紅茶が冷めきってしまうまで、その場から動けないでいた。鈍い痛みがじんわりと広がり、そしてそれはいつまでも消えてくれなかった。

 その日明は、なかなか寝付けなかった。ベッドにもぐりこんだのはいいものの、頭の中でぐるぐると今日のことが巡って、罪悪感と後悔に襲われて、目を閉じてもハナの傷ついた顔がはっきり浮かんでくる。明がようやくまどろみかけたのは、カーテンの隙間から朝の気配が見え始める頃になってからだった。

 けれどまどろみもつかの間、部屋の外から聞こえてくる物音で、明はその浅い眠りから目覚めた。最初はもう恵子が起こしに来たのかと思った。全然寝た気がしないまま明が時計を見ると、まだ恵子が来るには早すぎる時間だった。それで明は、この物音はハナの仕業だと分かった。階段を下りていったから、トイレにでも起きたのだろうと思ったけれど、それにしては長い時間、下の階でなにやら動いている足音がする。その物音は、どうしてか明をひどく懐かしいような気分にさせて、この感じは一体何なのだろうとベッドに寝転んだまま首をひねってみる。しばらく考えてみて、これは、ずっと昔の、まだ明の両親が生きていた頃、母が朝早く家族のために朝食を作ってくれていた時のあの感じなのだと明は気付いた。

ということは今、ハナは朝食の準備をしているのだろうか。どうして今日になっていきなり。明は気になってむくりと起き上がった。そのまま自分もそうっと階段を下りて、ハナがいるであろうキッチンへ向かう。そこには、明の予想通りに一人黙々と朝食の用意をするハナの後ろ姿があった。目の前の作業で頭がいっぱいで、まだ明には気付いていないようだ。昨日のケンカから仲直りも出来ていないままだし、恵子が来る前に少しでも話しておいたほうがいいと思って、明は意を決してその背中に声をかけた。

「お、おはよう、ハナ」

 ハナはその声に手を止めて振り向いて、そのまま何も言わずに顔を戻して作業を再開した。

「もうちょっと寝てても大丈夫だよ。恵子が起こしに来るまで」

 そして、包丁で何かを切りながら、ハナはそっけなくそれだけ言って、あとはそれっきり何も言わない。やっぱりまだ機嫌は直っていない。ハナの背中からはっきりと拒絶の意思が伝わってくる。明はその背中に二言三言声をかけてハナと会話をしようとしたが、そのどれにもハナは答えてはくれずに、宙ぶらりんになった言葉は行く先を失って、二人の間で寂しく消えた。

 何を言っても返事がないので、明は黙ってキッチンを出た。寝ててもいいと言われたところで、その言葉に甘えて寝るわけにもいかない。沈黙を破るために明はテレビをつけ、いつも見ている朝のニュース番組にチャンネルを合わせた。元気のいい音楽と、おなじみの女性キャスターが映る。ちょうど朝の占いのコーナーが始まったところだ。やることもなくて手持ちぶさたな明が仕方なくそれを見ていると、なんと明の星座の運勢は本日最高のようだった。お気楽なキャスターの声が耳に障る。寝不足で朝からこんな状況なのに最高の運勢だなんて、つくづくテレビの占いなんかあてにはならないと思う。

「ほんと、こういうのは適当なことばっか言うよな、ハ……」

 ハナ、と言いかけて明は慌てて口をつぐんだ。寝不足で頭がぼーっとしていたからか、いつものように話しかけるところだった。

「何か言ったー?」

 キッチンからめんどくさそうなハナの声が聞こえる。なんでもないと答えると、そう、と気のない声が返ってきた。いつもだったら、と明は思う。いつもだったら、ハナがどうでもいいようなことを言って、それに明は適当に気のない返事をして、ハナがちょっとむくれたあとに笑ってくれるのに。これではまるであべこべみたいだ。明は、ハナを怒らせてしまって、悪いとも思ったし、早いうちに仲直りしておかないと後が面倒だとも思っていた。でも明は今になって初めて、寂しいと思った。ハナが笑ってくれなくて、話しかけてくれなくて、明は寂しかった。後々のことだとか、周りの目とか、そういうことじゃなくて、今、自分のためにハナと言葉を交わしたかった。そんなことを思いながら、明はただ黙ってテレビの画面を見つめていた。

「はい、召し上がれ」

 しばらく明がテレビを眺めていると、ハナが朝食の準備を終えて、食卓に皿を並べ始めた。明も手伝おうと立ち上がろうとしたけれど、

「いいよ。あたし一人で出来るから」

 あっさりと一蹴されてしまい、それ以上は何も手出し出来ずにただハナが食器を運ぶ危なっかしい足取りを見ていることしか出来なかった。

 普段よりもかなり早い朝食を、二人は沈黙のまま向かい合ってひたすら食べる。ハナが一人だけで朝食を作るのは初めてだったけれど、明の不安に反してごく普通の出来だった。ご飯と、大根と油揚げのみそ汁に、刻んだネギを巻いた卵焼き、漬物という献立で、寝坊して時間があまりない時は納豆ご飯にみそ汁だけで済ます明の朝食よりもむしろちゃんとしている。

「こんないい朝飯食ったのは久しぶりだ」

「そう」

「……」

 会話が続かない。やっぱり変にご機嫌を取ろうとしても無駄みたいだ。ちょっとむくれているくらいならこれですぐに機嫌を直してくれるのに、今回はそうもいかない。ハナは顔色一つ変えずにいる。こんな時でもときどきテレビの画面に夢中になって箸が止まるあたり、ハナらしいといえばハナらしいのだけど、明に対する態度は冷たいままだ。明は軽々しくおべっかを使ってどうにかしようとした自分がまた嫌になった。そういう問題ではないというのに。言いたいことはこんなことじゃないのに。頭ならいくらでも下げるし、それでハナの気が済まないならビンタでもなんでも受けるつもりでいた。でも、ハナは謝ることさえもさせてくれない。そのうち、ごちそうさまでした、と先に食べ終わったハナが立ち上がり、食器を片づけ始めた。

「食べ終わったらキッチンに持ってきてね。洗うから」

 あくまで事務的に伝えると、ハナは空になった食器を持ってキッチンへ行ってしまう。明も残っていたみそ汁を飲み干すと、ため息をついて、時計を見た。そろそろ恵子が来る時間だ。いつもならまだ寝ているはずの時間なのに、もう朝食まで済ませたと知ったら驚くだろう。明はそう思うと同時に気が重くなった。こんな気まずい雰囲気の中に恵子を招き入れるのは気が進まないし、せっかく昨日励ましてもらったというのに何も解決していないというのも、恵子の優しさを無駄にしてしまったようで申し訳なかった。

 キッチンに行くのが気まずくて、食べ終わったのになんとなくぐずぐずと立ち上がれないでいると、玄関のほうで何か人の気配がして、それから遠慮がちにゆっくりとドアを開ける音が聞こえてきた。ついに恵子が来てしまった。おじゃまします、と恵子の声がかすかに聞こえた。いつも言っているのだろうか。恵子が起こしに来るまで明もハナも寝ていて誰も返事なんかしないのに、律義な性格だ。でも、今日は違う。恵子が来るより前に、二人とも起きている。

「はーい」

 ハナが洗い物の手を止め、明よりも先に玄関に走る。明も、とりあえずハナについて玄関まで行く。

「おはよー、恵子」

「……よう」

 さっきまでの態度とうって変わって、ハナはにこにこと恵子に話しかける。明以外には普通に接するつもりのようだ。その態度に、明は少々、まるでやきもちみたいにむっとする。

「えっ? どうしてもう二人とも起きてるの? もしかして私、時間まちがってる?」

 慌てたのは恵子だ。なにしろ、家に来た時に二人がもう起きていたことなんて、今まで一度だってなかったのだからしょうがない。

「あー大丈夫大丈夫っ。ただちょっと早起きしようと思ってさ。あっ、そうだ! 今日の朝ごはんはあたしが作ったんだよっ。見てみてよー」

「へえ、じゃあそのために早起きしたんだ。ひょっとして、明との仲直りのしるし、みたいなやつ?」

「…………」

「あ、あれ?」

 ハナが思いのほか元気に振る舞っていたから、もう二人はとっくに仲直り出来たんだと勘違いしたのだろう。恵子はあっさりとそのデリケートな話題を口にしてしまった。ハナの顔がいっぺんに表情を失い、明とハナの間に緊迫した空気が流れる。

「……いいから早く上がって上がって! 結構上手に出来たんだー」

 ハナが取った選択は、強引に流してしまう、というものだった。

「え? え?」

 恵子は自分が触れてはいけないものに触れてしまったことを悟り、うろたえた様子でハナと明を見る。明は無言で、目の動きだけで、すまんと恵子に伝えた。

「はやくはやくー」

 恵子の混乱にも構わず、ハナは恵子を急かす。とことん明に関する話題には無視を決め込むつもりのようだ。

「や、やっぱりまだ昨日のこと怒ってるんだよね。でもね、聞いてハナちゃん。あれは私とひかりが始めた悪ふざけなの。ごめんね。私たちがあんなことしなければ……」

「なんで恵子が謝るの? あたし、別に恵子には何も怒ってないから安心して」

 恵子が昨日のことをフォローしようとしてくれるが、ハナはそれも遮って、しばらく明には見せてくれなかった最高の笑顔を、当てつけるように恵子に向けた。

「う、うん……」

 恵子はその笑顔の迫力に押されて何も言えず、明に、口の動きだけで、ばか、と言ってひと睨みすると、ハナの後についてキッチンへと消えていった。

「……歯でも磨くか」

 終始ハナに無視されて、玄関にぽつんと残された明はそう呟いて、キッチンで楽しそうに喋るハナの声を聞きながら、一人寂しく洗面所に向かって歩き出した。

 

 

「いってらっしゃい」

「……ああ」

恵子が来てからは普段通りに明るく振る舞うハナを見ていたたまれなくなり、明は一人で先に家を出ることにした。まだ学校には大分早いと恵子は引きとめてくれたけれど、ハナは相変わらず明には淡々とした態度で、特に何も言わずに明を送り出してくれるだけだった。明は玄関を出るとそのまま振り返らずに歩いた。すぐに玄関のドアが閉まる音がする。いつも意識しているわけでもないのに、今日はやたらと閉まるのが早い気がした。一人で登校するのは、朝起きたらハナがいて、それで恵子を怒らせたあの日以来だった。それが今度はハナを怒らせている。こんなに短いうちに二人も女の子をここまで怒らせてしまうなんて。明は女心ってやつが分かってないんだよ、と康介に言われたことを思い出した。康介はあれで女子には結構人気がある。なんでも、不良っぽい見た目の割に真面目で頭がいいし、周りに気を遣える、とかなんとか。それはやっぱり人と深く関わることを避けてきた明には欠けているもので、あの時は気にもとめていなかったけれど、実際にこんな状況に置かれてみて、康介の言葉がずっしりと身にしみるようだった。

人の心の難しさを再認識しつつ、寒さに身を縮めて歩いていると、後ろから誰かの走ってくる足音が聞こえた。もしかして恵子かと思ったが、振り向いて確かめる元気もない。その足音は明と並ぶと走るのをやめたので、そこでようやく明は顔を上げて、足音の主が恵子だと確認した。

「はい、これ。ハナちゃんから」

「お、おう」

 恵子はおもむろに鞄に手をつっ込むと、そこから弁当箱を取り出して明に手渡した。まさか弁当まで作ってくれるとは思っていなかったので、明は少し戸惑う。

「……ハナは、何か言ってたか?」

「これ、明に渡しておいて。くらいかな」

「それだけか?」

「あとは、学校ではどんなこと勉強してるの、とか、ひかりに謝っておいて、とか、いってらっしゃい気をつけて、とか」

「他には?」

「明のことは何も言ってなかったよ」

「べ、別にそんなこと誰も聞いてないだろ」

 恵子は呆れたように先回りして答える。図星をつかれてうろたえる明を見て、恵子はもっと呆れて大きくため息をついた。吐き出された息が薄く白く伸びて、そして消えていく。

「聞かれなくたって分かるわよ、それくらい。どうするつもりなの? 相当怒ってるよ、あの態度」

「分かってる。いつかハナを初めて見た時のお前もあんな感じだったしな」

 歩きながらその時の恵子の怒りようを思い出していたからか、明はまたついそんな言わなくてもいいことを口走る。周囲の温度がぴしりと下がるような錯覚に襲われる。しまったと思い、そっと隣を覗うと、やっぱりそこには思い出したくないことを蒸し返された苛立ちを隠しきれない恵子の横顔があった。

「……すまん」

「別にいいよ。明が無神経なのは今に始まったことじゃないし。むしろちゃんと気付いて謝ってくるなんて成長したな、って思うくらい」

 ぼそりと明が謝ると、喜んでいいのかどうか分からない評価を下された。多分、喜んでいる場合ではない。

「じゃあ人の心を理解出来るくらい成長した明は、なんでハナちゃんが怒ったのか分かってるんでしょうね」

 曲がりなりにもちゃんと明が謝罪をしたので許す気になったのか、嫌みを言ってすっきりしたのか、恵子はもうけろっとした顔をして、話を本題に戻してきた。

「ああ」

 明は短く答える。さすがの明にだって、どうしてハナが怒っているのかくらいは分かっている。ただ、どうすればその怒りを静めてくれるのかが分からないのだ。謝ろうにも、それさえもさせてくれない。そういうことを、明がだらだらと歩きながら恵子に話すと、

「だーかーらー、そういうのまで自分の頭で考えなきゃ意味ないでしょ。いい機会だからたまにはレシピ以外のことも考えてみなさいよ。まったく」

恵子はまたも呆れたように息を吐いて、だーかーら、と隣を歩く明の頭を指でつつきながらそう言うと、あとはぷいと前を向いてしまった。どうやらもうこれ以上助け舟を出してくれるつもりはないみたいだ。まっすぐ前だけ見て、ずんずん歩いていく。明は立ち止まって、思いのほか強くつつかれた頭を軽くなでると、強情に振り返らない恵子の背中を見て少し微笑んだ。アドバイスと言えるほどのアドバイスをしてもらったかどうかは疑問が残るけれど、それでも明はずっと胸にのしかかっていたもやもやがいくらか晴れたような気分だった。明は大股で軽く走ってその背中に追いつくと、さっき恵子が明にしたみたいに足並みを合わせて、恵子に話しかけた。

「恵子のおかげで少し楽になったよ。助かった」

「なによ。変に素直じゃない。珍しい」

「……まあ、俺も成長したってことだ」

「言っておくけど、まだ明、全然大したレベルに達してないからね。人の気持ちを考える力」

「うるせ」

 お互いに前を向いたまま、軽口を叩きあう。こんな気安いやりとりも、それこそしばらくぶりのことだった。いつからか、両親を亡くしてしばらくすると、明は誰に対しても一定の距離を置いて深く付き合わないようになっていったし、その態度は恵子に対してもそうだった。それからも恵子が明に怒ることは何度もあったけれど、それまでは頻繁にしていたケンカの回数はずいぶんと少なくなってしまっていた。振り返ってみると、自分だけでなく、恵子にも相当寂しい思いをさせてきてしまったのだろうと明は思った。自分だけが辛いような顔をして、周りに迷惑ばかりかけてしまったと反省する。いい加減に、いつまでもこんな安い感傷に浸って生きていくのはやめにしよう。でないと、いつまで経っても前には進めない。こんな態度、ハナにも恵子にも失礼だ。

「なあ、恵子」

 明は軽口の応酬をいったんやめ、真面目な顔で、真面目な声で恵子の名前を呼んだ。なによ、と驚いたように恵子は言い返してきたが、明のその表情を見て、それ以上は何も言ってはこなかった。

「俺はもう大丈夫だ。もう甘えるのはやめる。ハナともちゃんと話す。許してもらえるかは分からないけど、とにかく向き合ってみる」

明は少しの間ためらって、でも一息にそう言い切った。

恵子は、意外そうな顔をして、小さく息を飲んだ。風が二人の間をすり抜けていく。

「……うん。待ってたよ、明。ずっと待ってた」

 恵子の返事は短かった。その声には、少しだけ涙が混じっていた。二人は前を向いたままだった。だけど明は、二人が確かに昔のように戻れたと感じていた。お互い何でも言い合えていた頃の、懐かしい感じだった。明はポケットの中の手にじっとりと汗がにじんでいるのを感じた。自分の本心を出すというのがこんなにも緊張することだったなんて、ずっと忘れていた。ポケットから手を出して、湿った掌を学生服のスラックスにごしごしと乱暴にこすりつける。朝の冷たい空気が心地いい。

「やっぱり、明は変わったよ」

「そうか?」

 変わった。康介にも言われたし、自分でも思っていた。でも真面目な話をした後でなんだか照れくさくて、明は素直に返事が出来ない。

「さっきはあんなに素直だったくせに」

 恵子がくすくすとからかうように、また明の頭をつつく。さすがにそう何度も攻撃されると痛いので、掌でその指の攻撃をガードする。

「おっ、やるじゃん」

 いつも何をされてもされるがままだった明が抵抗の姿勢を見せたのが面白いのか、恵子はさらに続けてつついてくる。

「くっ……」

 しばらく無言の攻防が繰り広げられたのち、明は抵抗するのがめんどくさくなってきて、攻撃から身を守るのをやめた。ここぞとばかりに何発か恵子の指がヒットしてきたけれど、またされるがままに戻った明に興がそがれたのか、恵子も手をポケットにしまって、なし崩し的に戦闘は終わった。恵子は少しだけ息を弾ませて、いつの間にか止まっていた足をまた動かして先に行ってしまう。明も息を整えると、数歩先を歩く恵子の、歩みに合わせてぴょんぴょん揺れるポニーテールを見た。こころなしか、いつもよりも元気に跳ねているような気がする。と、恵子がいきなり振り返った。

「なにぼーっとしてんのよ! これから学校行って、帰ったらハナちゃんに謝って許してもらわなきゃいけないんだから、しゃきっとしなさい!」

 そして、恵子の後ろで突っ立っていた明に向かって、笑顔で叫んだ。明はその声に一瞬面食らう。それはここ最近、おそらくは明のせいで、あまり見ることのなかった大きな笑顔だった。

「はいはい」

 明は寝不足でだるい頭をぐいと上げ、自分を待ってくれる恵子のもとへ再び歩き出した。遅い日の出がゆっくりと二人を照らす。ぴんとはりつめたような夜の冷たい空気が少しずつほぐれて朝になっていく。

「ま、どうしてもダメそうだったら私からも何か言ってみるから」

 ついさっき何か言ってみようとして失敗したくせに、恵子は妙に自信満々だ。でも、明はなんとなく、きっと大丈夫だという気がした。根拠はないけれど、そう信じてみたかった。そう思わせるほど、だんだんと明るくなっていく世界の中で、恵子のその笑顔はひときわ輝いていた。

「最悪の場合はな。頼りにしてるよ」

「うんうん。素直でよろしい」

 いつもよりもかなり早い時間に家を出たので、まだ通学路に人の影はまばらだ。普段は登校する生徒でごった返す道を、明と恵子は二人並んでのんびりと歩いた。恵子はまだにこにこと嬉しそうに笑っている。ハナの前での優しいお姉さんぶった姿よりも、やっぱり今の恵子のほうが、らしいなと思う。

 恵子がせがむので、学校に行く途中のコンビニに立ち寄って、恵子に缶コーヒーをおごった。コンビニの前で二人並んで飲んだ缶コーヒーは、睡眠不足の疲れた体に沁みわたるようで、だんだんと頭が冴えてきたような気すらした。温めすぎなほどに熱を帯びた缶で寒さをごまかして、二人揃って白い息を吐く。冷めてしまう前に一気に残りを飲み干して、飲むのが遅い恵子に文句を言うけれど、私が何年待ったと思ってるの、とつーんとして返されると明はぐうの音も出ない。最後までコーヒーの温もりを堪能している恵子を震えながら待つ。明は自宅がある方向をちらりと振り返ってみた。ここからはその姿は見えないが、そこにはハナがいる。帰ったら。家に帰ったらちゃんとハナに謝ろう。ハナの不機嫌なたれ目を頭に浮かべながら、早くその顔がだらしなく笑うところを見たいと思って、明はしっかりと心を決めた。

 

 

 しかし、明の決意も儚く、三日が過ぎてもハナの態度はそれからずっと変わらないままだった。明は改まって話をしようとするのだけれど、そのたびにハナはその場から立ち去ってしまう。運悪くアルバイトが立て込んでいて、明の帰りがずっと夜遅くになってしまったのも痛かった。明が家に帰る頃には、ハナはもう明の分の夕食をテーブルに並べて、明の食器は朝にまとめて洗うから水に浸けておいて、というメモを残し、自分は一人で部屋にこもってさっさと寝てしまっているのだ。いつもだったら明がアルバイトに行く日は恵子に来てもらって料理の特訓を続けているのだが、この問題が解決するまではそれもいったんやめにした。けれどもそれで逆にハナも意地になってしまったのか、朝に恵子が明を迎えに来ると、ハナはますます当てつけるように必要以上に元気に振る舞い、明はその姿を見てはひそかに肩を落とした。

 ハナは毎日早起きして朝食と弁当を作り、それを機械的に明に手渡してきた。明が学校に行っている間は家じゅうを掃除しているようで、家の中にはチリひとつ見当たらない。洗濯物も丁寧に畳まれて、明のワイシャツにはしっかりアイロンがかけられている。明の決めたルール『勝手に外に出ないこと』『両親の遺影がある仏間には入らないこと』をこれでもかと守った上で、ハナは家事をこなしていた。そして驚いたことに、そのどれもが、一つの文句もつけようがないほど完璧になされていた。いつも以上にやることは増えたはずなのに、ハナは明にも恵子にも頼らず、皿を一枚も割らずに、洗剤を床にぶちまけたりもせずに、ただ淡々と風呂を洗い、掃除機をかける日々を送った。どこにもミスがないものだから、明も家事について口を出すことが出来ないし、感謝の言葉を伝えようにも、生活の時間がずれていて、それも出来なかった。アルバイトから帰るたびにハナの手でどんどんきれいになっていく我が家が、なんだかハナと一緒になって自分を責め立てているように思われて、ハナが寝てしまった後に一人でのんびりとくつろぐ気にもなれず、明はこの数日、自分の部屋以外で心が安らぐことはなかった。

 そして、明とハナが冷戦状態に入ってから数日、初めての休日がやってきた。明は話し合いをするなら今日だと考えていた。今日は一日家にいるつもりだったし、まさかハナも一日中部屋にこもっているわけにもいかないだろう。たとえハナがもしそのつもりだとしても、今日こそは部屋のドア越しにでも、とにかく自分の思っていることをしっかり伝えてやろうと明は思っていた。

 明はハナがいつ頃起き出してきても大丈夫なように、平日と同じ時間に起きて、今日はハナがまだ部屋から出てきていないことを確認すると、何日か振りにキッチンに立ち、朝食の準備を始めた。ハナが平日と同じように働くつもりなら、そう遅くないうちに起きてくるだろう。その時に、一緒に朝食を食べて、そして今日こそ無視されてもしっかりと話そうと思いながら、明はハナを待った。メニューは、ハナのお気に入りの、黄身が半熟になったハムエッグにした。出会った日に食べて以来、ハナは明が作るハムエッグの黄身の具合がたいそう好きになり、自分でもどうにかしてその焼き加減を再現しようと苦労しているみたいだったが、今のところマスターには至っていない。明のことは無視し続けているとはいえ、最近の家事の頑張りには頭が下がる。そんな感謝の意味も込めて、久しぶりに作ってみた。これだったら少しはハナも喜んでくれるだろう、明はそう信じていた。

しかし、いくら待ってもハナは一向に起きてこなかった。せっかく作ったハムエッグもだんだん冷めて、固まってしまう。ひょっとして休みの日は家事も休みにしてのんびりとするつもりなんだろうかとも思ったけれど、昨日までの態度から考えるに、それはちょっとないだろう。もしかして慣れないことをしたせいで疲れがたまって、体調でも崩してしまったんだろうか。明がそう心配になってきた頃、上の階でドアが開く音が聞こえてきた。

 ゆっくりと、階段を下りる足音が近づいてくる。なんだかその足音に力がない。リビングに入ってきたハナの顔色を見て、明は自分の嫌な予感が当たってしまったことを確信した。

「あ、明。もう起きてたんだ。朝ごはんも作ったの? 別にそんなことしなくてもいいのにー」

 言葉を失った明には構わず、ハナはなんだか焦点の定まらない目でテーブルを見ると、力なくそう呟いて、倒れ込むようにイスに座った。

「まあ作ってくれたんならありがたく食べるけど。後片付けはあたしがやるからあとは何もしなくていいよ」

「お、おい、そんなことよりもお前、ひどい顔色だぞ。具合悪いんじゃないのか」

 こんな時でもそっけない態度を貫くハナに、明は今まで話そうとしていたことも忘れて声をかける。

「へいき」

「平気って、お前……」

「だから、へいき」

 ハナは覇気のない声で明に言い返すと、弱々しくたれた目で、強情に明を睨みつけて、それっきり黙り込んでしまった。誰が見たってふらふらなのに、それでも意地を張り通すハナに押されて、明はそれ以上追及するのをやめると、ご飯とみそ汁をよそって、食卓に並べた。

 ハナは小さくいただきますをして食べ始めたけれど、やっぱり箸の動きが鈍い。のどが痛いのか、一口飲み込むごとに辛そうな顔をする。明が食べ終わっても、ハナはまだ半分も終わらない。

「無理して食べなくてもいいぞ」

 箸が止まりがちなハナを見かねた明が口を出しても、だいじょうぶ、とむっとしたようにそう言って、無理やりみそ汁で流し込むように食べるので、もう好きにさせてやろうと明は思って、ハナが食べ終わるまではそっとしておくことにした。結局ハナは、たっぷり時間をかけて、どうにかこうにか完食した。

 明はハナの分の食器を無理やりハナから奪い取り、流しまで運んで水に浸けると、戸棚の中から風邪薬を探し出して、水の入ったコップと一緒にハナの目の前に置いた。

「飲め」

「いらない」

「いいから飲め」

 ハナはまた不満そうに明を睨んできたけれど、今度は明も譲らなかった。ハナの目の前に立ったまま、明は一歩も動かないでハナを見下ろす。しばらく無言のままで二人は睨み合う。でも明は、こればっかりは負けるわけにはいかなかった。誰が見てもハナの体調はかなり悪い。たとえハナが明のことを許してくれないにしても薬だけは絶対に飲ませようと、ようやく折れたハナがしぶしぶ薬を飲み下すまで、明はずっとハナから目を離さずにいた。

「これでいいんでしょっ。それじゃ……」

「ハナ、聞いてほしいことがある」

 水を飲み干すなり立ち上がろうとしたハナを遮って、明はついに話を切り出した。ハナはそれでも無視し続けようとしたのか一瞬迷うような顔をしたけれど、休日の間ずっとそうするのは無理だと分かっているみたいで、観念したようにまたイスに座りなおした。

「……明の話の前に、あたしのお願いを聞いて。それが終わったら、明の話もちゃんと聞くから」

 イスに座ったハナは、隣に立ったままの明を見上げながら、さっきまでよりも少し力強い目でそんなことを言った。てっきり不満げに睨みつけられて終わりかと思っていた明には、それは意外な反応だった。

「なんだ? 俺に出来ることなら、何でもするぞ」

 意外な反応ではあったけれど、今まで話も聞いてもらえなかったのに比べたら大きな前進である。もとより許してもらうためならハナの言うことは何でも聞こうと思っていたので、明はあっさりとその条件を受け入れた。明はハナの隣のイスに座って、まっすぐハナを見て、ハナの次の言葉を待った。ハナはちょっとためらうように俯いている。どんなお願いなんだろうか。あんまり想像がつかない。すると、ハナが顔を上げ、明と視線を合わせてきた。

「仏間」

 そして、ハナは小さくそれだけ言った。

「仏間?」

 明はハナの発言の意図が汲み取れず、おうむ返しに聞き返す。

「あたしに、仏間の掃除をさせて」

 ハナは息を整えて、もう一回、今度はより具体的に、明へのお願いを突き付けた。明はずっと、両親の遺影がある仏間には入らないように、とハナに言い聞かせてきた。それはハナが明の家に来たばかりの頃、あまりにも失敗ばかりして何かを壊すハナを警戒して、両親を危険にさらすわけにはいかないと明が講じたハナ対策だったのだが、最近になってそれなりに家事が板についてきたハナにとっては、そのルールがいまだに改正されないことが不満だったのかもしれない。確かに、ここ数日のハナだったら、もう大して心配する必要はないかもしれない。それでハナが機嫌を直してくれるなら、と明は頷いた。

「じゃあ、お前の具合がよくなったら……」

「今」

「今って、お前……」

「いいからっ」

 見るからにひどく弱っているというのに、ハナはそう主張して聞かない。しかし、正直言って今の状態で何かをさせるくらいなら、前までのハナに頼んだほうがまだましだと思うほど、ハナは体調が悪そうに見える。そのお願い自体はいい。だけど、今は休んでいてもらいたい。うーんと渋る明に、ハナはさらに畳みかける。

「お願い。今じゃなきゃ嫌なの」

 ハナの顔が赤い。目も潤んでいる。計ってはいないけど、きっと高熱が出ているのだろう。食事の時はのども痛そうにしていた。今だって、体は辛そうにイスの背もたれに預けている。だけど、そんなハナの瞳だけは、強い意志を持って明を正面から見つめていた。どうしてハナがそんなに頑ななのか、明には分からない。けれど、ハナにこんな顔をさせているのは、そもそも自分が原因なのだと考えたら、明はこの願いを聞き入れないわけにはいかなかった。

「分かった。ただし、今のお前に一人でやらせるわけにはいかない。俺も一緒にやる。それが嫌なら、諦めてくれ」

「……うん。それでいい」

 それが、明に出来る最大限の譲歩だった。そして幸いにも、ハナはそれを聞いて小さく頷いてくれた。とりあえずは交渉成立となり、明は肩の力を抜く。自分がハナとの会話の最中ずいぶんと緊張していたことに気付いて、明は軽く背伸びをした。

「じゃあ、俺は皿を洗っておくから、その間に着替えててくれ。それから掃除することにしよう」

「うん」

 ハナはまたこくりとほとんど分からないくらいに頷いて、ゆっくりと、と言うよりは緩慢な動きでイスから立ち上がった。やっぱり、相当辛いようだ。そのまま、服を着替えるためにふわふわとおぼつかない足取りでリビングから出ていく。本当に大丈夫か、と明は声をかけようかと思ったが、さっきのハナの目を思い出して、もう何を言っても聞いてはくれないだろうと思い直し、ハナが薬を飲む時に使ったコップを手に持って、キッチンへ歩いた。

「じゃあ、始めるか」

「ん」

 お互いに準備を終えて、二人で仏間を仕切る障子戸の前に立ち、明がやや緊張しながらその戸を開けた。畳と線香の香りが入り混じった独特な匂いが広がる。そういえば今朝はまだ線香をあげていないと、明はその香りで思い出した。具合が悪いというのに、ハナは興味深そうにきょろきょろと仏間の中を見回す。一見しただけでは分かりづらいけれど、最近忙しくて仏間の掃除は怠っていたので、その怠惰の証拠がうっすらとそこここに白く積もっていて、明は何となくばつが悪い。ほかの部屋はハナの手で完璧な状態になっているからなおさらだ。

「それで、どれくらいやるんだ?」

「徹底的にっ」

 ハナは短くそう返事をすると、おぼつかない足取りで仏間に踏み込み、掃除を開始した。その真剣な目つきがかえって緩慢な体の動きの不自然さを強調して、ひどく痛々しく見える。

「この押入れの中身は?」

 掃除は奥から手前へ、の基本に則って、ハナはまず部屋の一番奥の押入れから手をつけることに決めたようだ。

「あー、その中は……」

 順番としては間違っていない。だけどその押入れの中には、明がハナを仏間に入らせなかったもう一つの理由が眠っていて、それをどう説明したものかと、明は言葉を詰まらせる。

「中は?」

 ハナが首を傾げながら聞いてくる。言葉に迷っている明を見て、不思議そうな顔をしている。

「……昔のアルバムとか、親の私物とか、そういうのをその中にまとめて置いてるんだ」

 結局、どうしたってごまかしきれそうもないので、明は正直に話した。そして、これがハナを仏間に近づけたくなかったもう一つの理由だった。昔の思い出がつまった品物の数々。これをハナに見せるのは、なんだか心の奥底までさらけ出しているような感じがして、つまり、なんというか、

「恥ずかしかったんだよ。だから、今まで隠してた。アルバムなんかはともかく、別に捨てたっていいような物ばっかりいつまでもとっておいてるなんて、女々しいだろ。それをお前に知られたくなかったんだ」

 ただ、それだけのことだった。もちろん本当にハナに掃除させるのが不安だった、という理由もあるけれど。なんだか、いざ口に出して言ってみると、自分で思っていた以上にくだらないことだった気がして、おかしかった。

「そうなんだ……」

 秘密を打ち明けて内心すっきりしている明とは対照的に、ハナはその話を聞いて神妙な面持ちになっている。さっきまで押入れの目の前に立って、今にもその戸を開こうとしていたところだったのに、ハナはためらうように一歩下がって、本当にいいのかと問いかけるように明のほうを振り向いてきた。変なところで忠義を見せる奴だと、不安そうな、聞いてはいけないことを聞いてしまったようなハナの顔を見て明は思う。

「別に見られても問題ないような物ばっかだよ。それに、たまには出してやらないといけないしな」

 明はためらうハナに代わって押入れの前に立ち、自分でその戸を開いた。つんと鼻につくすえた臭いに、明は顔をしかめる。これからはもっとこまめに掃除をしようと、日ごろの怠惰を後悔した。丁寧に並べられた、埃の積もった段ボール箱を一つ一つ取り出し、床に次々と置いていく。アルバムや、明が小さい頃に気に入っていたくまのぬいぐるみ、額に納められた父親の調理師免許など、箱の中には明と両親の思い出がまとめて詰まっていた。明は畳に座りこみ、懐かしさについ夢中になって、傍らに立つハナのことも一瞬忘れてしまい、一つ一つの品物をそっと手に取っては、乾いた布で優しく埃を払っていった。日々の生活の中で、ずっと頭の片隅に追いやられていた記憶が、積もった埃を拭き取るたびに、鮮やかに明の心の中に蘇ってくる。

「……っと、悪い。勝手に始めちまってた」

 しかし明はふと我に帰り、それらの品からぱっと手を離す。今はあくまでハナの『お願い』の最中なので、あんまり思い出に浸っているわけにもいかない。明はまだ立ったままのハナを見上げて、指示を仰ごうとした。

「じゃあ、俺はハナに従うから、何をすればいいか言ってってくれ」

「……あたしはお仏壇とか床をやるから、明はその箱の中身をきれいにしてて」

「いいのか?」

 ハナはうん、と頷くと、ぷいと明からそっぽを向いた。

「大事なものなんでしょっ? それ。だったら、自分でやったほうがいいと思う」

「そうか。ありがとな」

 明はそっぽを向いたままのハナにお礼を言った。いつか、近いうちに、ハナにも見せてやろうと思った。

「じゃあ、あたしも始めるから」

「ああ、でも無理するなよ。きつくなったらすぐ言えよ」

「大丈夫だってばっ」

 ハナの体調を心配する明に、ハナは普段よりもずっと弱々しい声で強がってみせた。ハナはそのまま危なっかしい手つきで仏壇の掃除に取りかかり、明をひやひやさせたけれど、そんなに立派な仏壇というわけでもないし、遺影だって予備がちゃんとあるので、もしもハナが何かしでかしてもどうにかなるだろうと考え直し、これ以上ハナの神経を逆なでしてしまわないよう、明はハナに声をかけるのをやめた。

 二人はそれからしばらく黙ったままそれぞれの作業を続けた。最初はハナの様子をちらちら気にしていた明も、ハナが視線を感じるたびに鬱陶しそうに睨んでくるので、しょうがなく自分の仕事に集中することにした。一度目の前の仕事に集中すると、その中身が思い出の品の数々だというのもあって、ついつい懐かしい記憶に入りこんでしまう。

 段ボール箱の中には、アルバムが全部で三冊あった。明が小学校に入る前までで二冊、そして小学校に入学してから中学校時代までの分が一冊にまとめられていた。明は最初の一冊から順に手にとって、破れたり汚れたりしたところがないか確認して、それから表紙についた埃をそっと拭き取った。二冊目も、明は同じように軽くページをめくってみて、それから表紙を拭いた。一冊目と二冊目ではまだ明も幼かったので、ほとんどの写真で満面の笑顔をカメラに向けていて、なんだか自分なのに自分じゃないような不思議な感じがした。

 明は幼い頃の懐かしい思い出に浸りながら三冊目のアルバムを手にする。小学校に上がってからの写真が収められた三冊目のアルバムは、前の二冊に比べてずいぶんと軽い。時とともに変色してしまった白紙のページがアルバムの半分以上を占めていて、それがやけに物悲しく見えた。小学校の入学式の写真で始まるそのアルバムは、低学年の頃こそいろいろな行事の写真があったけれど、学年が上がるにつれて、写真の数は少なくなり、中学校時代の写真に至っては、入学式の写真しかない。そして、その入学式の写真が、明が両親と一緒に写った最後の写真だった。写真を順番に見ていくと、体の弱かった母が一年ごとにだんだんやつれていくのがはっきりと分かる。母はもうそれほど長くは生きられないと、中学校に上がる前には知らされていたし、入院の期間が延びるたびにその事実は実感を持って明の家族に重くのしかかっていた。それでも、中学校の入学式があったあの日、この写真が家族全員で写る最後の写真になってしまうなんて、誰が想像出来ただろうか。母はもう長くないと言っても、半年や一年で死んでしまうほど重症だったわけじゃなかったし、父はどこにも病気なんてない健康な人間だった。

 あの日も、ハナを拾った日のような、冷たい雨が降る日だった。その日は土曜日で、通っている病院で定期健診がある日だった。父がいつものように母の手を引いて助手席に乗せ、それから運転席に乗り込む。よく見慣れた光景だった。父はどんな時も母を気遣っていて、そんな父を明は尊敬していた。二人が帰ってきたらすぐ夕食にできるように、明は留守番をしながら準備をしていた。その日のメニューを、明は覚えていない。ただ、父さんの作るようにはいかないなと首をひねったことと、父さんが帰ってきたらコツを教えてもらおうと思ったことだけ、記憶の断片としてぼんやりと残っていた。その次に明が覚えている場面は、伯父夫婦と一緒に両親の遺体と面会しているところで、その次の瞬間には、明はどうしてか通夜の席にいた。

 その後になって伯父から聞いた話によると、明は遺体と面会した時も葬儀の間もずっと無表情のままどこか一点を見つめてぼんやりとしていたようだ。食事もほとんどとらなかったらしいけれど、明にはほとんど思い出せない。唯一覚えているのが、この先どうするかと伯父夫婦と話をした時に、高校を出るまでは今の家に住ませてほしいと頼んだことだ。その時の記憶は鮮明に残っている。親を亡くしたばかりの中学生が一人暮らしをするなんて、無謀もいいところだ。当然のように伯父夫婦には反対されて、一人で生きていくのがどれほど難しいことなのかを懇々と諭された。だけど、当時の明はどうしてもと言って聞かなかった。どうにかして諦めさせようと説得してくる伯父夫婦に、料理も掃除も自分で出来るから、と泣きながら食い下がった。今思えば、あんなわがままを言ったのも、そもそも両親が死んでから泣いたのも、後にも先にもあの時だけだった。そんな明を不憫に思ったのだろう、最後には二人も折れて、伯父の経営する洋食店の手伝いをすることを条件に、明は今の家に残ることを許された。

 いろいろあったとその時を思い出しながら、明はぱたんと三冊目のアルバムを閉じる。両親がいなくなってからは、特に何の感慨もなく、ただぼんやりとしていただけだったけれど、こうして昔のことを振り返ってみると、やっぱりまだまだ聞きたいこともあったし、言いたいこともあったことに気付く。母の病状のことは理解していたつもりなので、大きく反抗したことはないけれど、それでも何度も生意気な口は叩いたし、料理の腕だって、まだ父には遠く及ばない。ありふれた日々を大切にしてこなかった後悔と、ずっと続いていくと信じていた生活があっという間に崩れてしまう恐怖が、ふいに明の胸をついた。今のハナとの生活も、こんなふうにあっという間になくなってしまうのだろうか。そんな不安が、明の心に浮かんできた。

 ぽとりと、アルバムの表紙に何かが落ちた。それは透明な滴だった。驚いて顔を手で触ってみると、明の目から、一筋の涙が頬をつたっている。それで初めて、明は自分が涙を流していることに気付いた。ハナを失いたくない。そんな思いが、悲しい記憶と一緒に心の中に押し込められていた明の感情を揺すっていた。一滴、また一滴と、涙が落ちてはアルバムの表紙に滲む。

「えっ? 明、泣いてるのー?」

 明の様子に気付いたハナが、ぎょっとしたような声を出す。明が涙を流しているという異様な光景に、思わず無視するのも忘れて話しかけてきた。

「い、いや、気にしないでくれ」

「う、うん……」

 明はごしごしと乱暴に目をこすって、なんとかそう返事をした。涙声になっていたらかっこ悪いなと思ったけれど、思ったよりはいつも通りに声を出せて、少しほっとする。でも、一度心に抱いてしまった後悔と、ハナを失いたくないという思いは消えてはくれない。明日もハナがここにいてくれる保障なんか、どこにもないのだ。そう思ったら明は、どうにも我慢が出来なくなってしまった。

「なあ、ハナ。聞いてほしいことがあるんだ」

「明の話ならあたしのお願いが終わった後でって言ったでしょ」

 さっきは心配して話しかけてきてくれたくせに、ハナはもうそっけない態度に戻り、明のほうを見もせずにそう返事をした。でも、もう明は引きさがらない。

「じゃあ、今から俺は一人言を言う。お前はただ無視していてくれればいい」

 ハナは明のへ理屈には何も答えなかった。けれど、今までと違って、明と話したくないがために立ち去ったりはしなかったので、それでハナの承諾は得られたと勝手に判断して、アルバムの表紙を見つめながら、明はゆっくりと話し始めた。

「俺は、父さんのことも母さんのことも尊敬してた。俺が料理を始めたのも父さんが料理人だったからだし、他の家事は母さんに無理させたくなかったから覚えた。でも二人とも事故で死んで、それから一人で生きてきた。一人で、って言っても、伯父さんたちとか、恵子には迷惑かけっぱなしだし、自立出来てるわけじゃないけどな」

「……それは、恵子から聞いた」

 ハナがぼそりと、掃除の手は止めないままそう言った。

「ああ。そうらしいな」

 それは明も知っていた。ハナちゃんに喋っちゃった、とほとんど罪悪感がない声で謝ってきたいつかの恵子を思い出す。ハナに両親のことを知られても明は怒らないと知っていたような顔だった。

「それで、それから俺は意識して他人と距離を置くようになった。もう、親しくしていた人がいなくなるのは耐えられないと思ったから。そんなに大変なことでもなかった。クラスメイトなんかは親を亡くした俺に気を遣って話しかけてこなかったし、俺はただぼーっとしてればよかった。恵子だけはいつも通りに俺と接してくれてたけどな」

 だけど、と明は一旦言葉を切る。

「だけど、俺は恵子からも逃げた。あの時は、誰かと仲良くするのが死ぬほど怖かったんだ。仲良くしたって、どうせいつかいなくなってしまうって、本気で思ってた。恵子と離れたって、それまでの関係がなくなったり、別れが来た時に辛さがなくなったりなんてするわけないのにな」

 ほんと、馬鹿みたいだろ。と明は自嘲するように口もとだけでちょっと笑った。ハナは明のほうは見ないで、でも掃除の手は止めて、黙って明の話を聞いていた。

「ずっとそうやってきたんだ。高校に入っても、大して友達も作らないで、料理ばっかりやって。友達にも誰にも頼らないで、早く自分一人だけで生きていけるようになりたかった。そうすれば、誰とも関わらなければ、誰も失わないで済むようになるって思ってた」

 明はそこまで言うと、またハナに目を向けた。ハナは頑なに明と目を合わせようとしない。熱で潤んだ瞳が痛々しい。

「そんな時だ、お前を拾ったのは。……寂しかったんだ。一人だけで生きていくって強がるのも限界だったのかもしれない。楽しかったよ、お前と暮らすのは。始まりが始まりだったから、何も気を遣わずにいられたし、お前も昔の俺がどうだったかは知らないし。だんだんお前の存在が大切になってきた」

「……」

「だけど、そういう関係に、俺は甘えていたんだ。ハナは、俺のどんなとこも受け入れてくれるって、勝手にそう勘違いしてた。ずっと誰とも仲良くしないように生きてきて、どうハナと接していけばいいのか分からなくなってた」

 明は小さく息を吐く。今一度気を引き締める。長い前置きになってしまったけれど、本当に言わなければいけないのはここからなのだ。

「俺は親が死んで、たくさん後悔してることがある。言わなきゃいけないことを全然伝えられなかった。どうしてもっと早く言っておかなかったんだろうって、何度も思った。それを思い出したんだ」

 なあ、ハナ、と明はもう一度ハナの名前を呼んだ。ハナの返事はない。でも明は、それでも構うもんかと思った。

「俺はもう後悔したくないんだ。俺はハナにひどいことを言った。もう顔も見たくないほど怒って、出ていかれても文句を言えないくらいひどいことだったと思う。だから、今言わなきゃダメなんだ。たとえお前が聞いてくれなくても、俺はもっと早くに言うべきだった。ハナ、ひどいことを言って悪かった。許してほしい。また、前みたいに俺と話してくれないか」

 明はそこまで言うと、ハナに向かって頭を下げた。ハナは、まだ黙っている。頭を下げているので、ハナがどんな表情をしているかは見えない。しばらく、暖房の音だけが静かに部屋の中を満たしていた。

「……ずるい」

 ハナが、唐突にぽつりと呟いた。

「明はずるいよ。そんなこと言われたらさ、黙って無視とか、そんなこと出来ないって思うじゃん」

 ハナは唇をとがらせ、熱でかすれた声で、不満そうに明を睨みながらそう文句を言った。

「全部自分が悪いみたいな顔しちゃってさー。もともとは明が決めたことをあたしが守らなかったのが原因なのに。確かにあの言い方はひどいなって思って、あの時は頭にきてたけど、後になって考えたらあたしも悪かったんだし。でもなんかあんなこと言われたのにこっちから謝るのも嫌だって思って意地になってたら、ますます変な感じになっちゃうし。……だから、お詫びのつもりで、せめて家事を完璧にやって、全部の部屋をきれいにするくらいはしてからごめんなさいしようって決めてたのに、そうやって勝手に先に謝ってくるし。……ずるいよっ」

「……」

 ハナは唇をとがらせたまま、ぼそぼそと明への文句を言い続ける。明は、ハナの予想外の言葉に、ただ言葉が出ない。

「じゃあ、黙って家事だけやってたのも、恵子にだけいつも通りにしてたのも、俺への当てつけとかじゃなく……」

「あれはー、そういうのじゃなくて、あたしはもう怒ってないよっていうサインだったんだけどー、伝わらなかった?」

「伝わらねえよ……」

 ちょっと恥ずかしそうに、ハナがほっぺたをぽりぽりとかく。その顔には、高熱のせいだけではないだろう赤みが差していて、明はそれを見て、ここ数日の苦悩と今日の決意は一体何だったのかと、がっくりと脱力した。

「だからまあ、今回はおあいこということで、ね? やっとあたしたちも思いが通じ合ったんだし。結果オーライってやつかなー」

 ハナが熱っぽい顔で、にっこりとそう言って笑った。そういえば、自分の思いを伝えたいと思うあまり、冷静になると大変なことを言ってしまった気がする。

「さ、さっきのはあれだ。なんて言うか言葉のアヤと言うか……」

 明はどうにか弁解しようとするけれど、何を言ってもハナの耳にはもう届いていない。

「いやー、明があんなにあたしのことを大切に思っていてくれたなんて嬉しいなー」

 具合が悪いくせに、ハナはここ最近で一番の笑顔で明にまとわりついてくる。この数日ずっと甘えられなかった分を取り戻すように、べたべたと明に張り付いて離れない。振り払おうにも、ハナの体はだいぶ弱っているのを明はもう分かっているので、それも出来ない。

「おい、やめろ。離れろ。重い。お前の熱のせいで暑苦しい」

「えー? あたしは病人なんだよっ。もっと優しくして! ごほごほっ。ああ体が辛いなー」

 仕方がないので言葉だけで説得しようとするけれど、ハナはまったく明の言うことを聞いてくれる気配がない。これで仮病じゃないのだから始末に負えない。

「おい、離れろってば。っていうか、掃除はどうするんだよ」

「あー……、それなんだけどね、やっぱり辛いからまた今度にしてもらってもいい? もう仲直り出来たわけだし」

「はいはい……」

 明はどうにかして自分からハナの気をそらそうと努力はしたものの、結局、仲直りという用事を済ませてしまったハナのギブアップ宣言をもって、仏間の掃除はうやむやのうちに終わることになった。中途半端で終わるのはなんだかすっきりしないけれど、ハナもかなり体力を消耗していたので、残りは後日に回すことにして、二人の長いケンカはあっさりと幕を閉じた。明は、安心感と呆れがない混ぜになった複雑な、大きなため息を一つついて、まあ、これでよかったのだろうと思うことにした。

 

 

 無理に体を動かしていたハナの体力の消耗は思った以上に激しく、仲直り出来たことで気持ちも切れてしまったのか、さっきまでの空元気もどこへやら、ハナは明にへなへなと寄りかかると、そのままぐったりと全身の力を抜いて目を閉じてしまった。

「おい、大丈夫か? 歩けるか?」

「ちょっと、無理かも……」

「だから無理するなって言ったんだ」

「ん……」

 息も絶え絶えのハナに肩を貸して、とりあえず明はハナをリビングまで運んだ。そのままソファにそっと寝かせてやる。ハナはされるがままになって、どさりとソファに横たわった。それだけでも今のハナには重労働だったのだろう、しばらくハナは荒く肩で息をして、あーとかうーとか辛そうな声を漏らす。

「ごめんなさい……」

 ハナが弱々しく、消え入りそうな声でそう呟く。

「気にすんな。今は黙って休むことだけ考えてろ。それじゃ、俺はおかゆでも作るから、ちょっとそこで待ってろ」

 明はぽんとハナの頭を軽く叩くと、そっとその手を離そうとした。けれど、何かに袖が引っ掛かったように、明の手が止まる。見ると、ハナが自分の頭に置かれた明の袖をちょこんとつまんで、すがるような目で明を見上げていた。

「ハナ、すぐに出来るから。ちょっとだけ待っててくれないか」

 何も言わず、ただ迷子みたいに不安そうに明を見つめるハナに、明は静かに諭すように話す。けれど、ハナは明の袖をつかんだまま、いやいやと小さく首を振るばかりで、明の言うことを聞いてくれる様子はない。

「いかないで、明」

 しぼりだすような小さな声でハナはそう言って、袖をつかむ手にほんの少し力を込めた。

「ごめんなさい」

「だからそれはいいって」

 ハナはまた明に謝る。熱のせいか、なんだか必要以上に卑屈になってしまっているみたいだ。

「また明に迷惑かけちゃった。ケンカして、迷惑かけて……。いかないで。ごめんなさい。あたしを、一人にしないで。置いてかないで」

 ハナの言葉はだんだんと支離滅裂になってきて、その声には次第に嗚咽が混じり、とぎれとぎれに苦しそうな熱い吐息が明の手に当たる。熱に浮かされたハナの目からは大粒の涙がとめどなく流れて、ハナの顔と明の手を濡らす。

「あきら、あきら」

 しゃくり上げながら自分の名前を繰り返し呼ぶハナを、明は見捨てることなんか出来なかった。立ち上がりかけていた腰を下ろし、ソファの脇に座ると、明はまたハナの頭をぽんぽんと優しく叩いた。ハナはその手をぎゅっと絶対に逃がさないように両手でつかんで、荒い息を吐きながらひたすら泣き続けた。落ち着いてきたかなと思ってそっと手を引っ込めようとすると、ハナは必死でその手にしがみついてくるので、あまり不安を煽るのも気の毒だと思った明は、ハナが落ち着きを取り戻すまでもう少しだけ待つことにした。

 明も小さい頃熱を出した時は、一人で寝ていると言いようのない不安に駆られて、どうしても黙って寝ていられなくて母に泣きついたものだった。成長するにつれて体も丈夫になり、熱を出すなんてめったになくなっていたから、忘れてしまっていた。まだ小学校にも上がっていない頃の記憶だ。アルバムを見返すまでは、そしてハナにこうして同じことをされるまでは、決して思い出すことのなかった記憶。あの時母も、今の自分と同じ気持ちでいたのだろうかと、明はまたしばらく感傷に浸る。こんなことを考えるのも、やっぱりハナが仏間の掃除をすると言って、昔の思い出を引っ張り出してきたからこそなのだと思うと、なんだかんだと強がってみてもハナに心を救われていることに気付く。そんなハナが自分を必要としてくれているのなら、明はどこにも行かないでずっとハナのそばにいてやろうと思った。

 ハナの泣き声だけが静かに部屋に響く。小さな子供みたいにすがりついてくるハナを、明は待った。外を走る車の音も、妙に大きく聞こえる時計の針の音も、明には関係なかった。明は、ただハナだけを聞いていた。そうして明が待つ内に、ハナの呼吸が少しずつ穏やかになり、明の手をつかんでいたハナの力が緩む。

「落ち着いたか?」

「……ん」

 明が手を離しても、もうハナは取り乱さないで落ち着いていた。明の袖をつかんでいた手でごしごしと目をこする。相変わらず熱で苦しそうではあったけれど、その表情はどこかすっきりとしていた。

「じゃあ、俺はおかゆを作るから、少しだけ待っててくれ」

「分かった」

 聞き分けよく、ハナはあごだけ引いて頷く。だけど、よいしょと立ち上がろうとした時、またしてもそでが引っ張られて、明はバランスを崩した。

「おい、すぐに作って持ってくるから……」

「ぎゅってして」

「はあ?」

「一回だけでいいから、ぎゅってして」

 のどがかすれたような、しぼり出すようなか細い声だった。声だけ聞けば、なんと悲壮な願いに思われたかもしれない。けれどそんなハナの顔からはどこかいたずらっぽい気配がにじみ出ていて、明が断れないことを分かった上でやっている、そんなかわいらしいずるさがあった。

「はやくー」

「はいはい、分かったよ」

 ハナが苦しそうに、しかし期待のこもった目を明に向ける。どうせ明には断れるはずがないので、素直にハナの命令に従うことにした。自分からハナを抱きしめるのは初めてである。明は恥ずかしさにためらいながらも、熱がある時は誰かに甘えたくなるもんだしな、と心の中で自分に言いわけをしつつ、そっと両腕でハナの体を包み込み、それでいながらハナに体重をかけないように気をつけて、ハナを抱きしめた。

「んっ……」

「お、おい、変な声出すなよ」

 明の耳元で声を漏らしたハナに、明は不謹慎にもどきりとさせられる。思っていたよりもずっと細くてやわらかい。やや幼い顔立ちで、身長だって明よりもずっと低いくせに、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ、なんというか非常に女性らしい体をしている。ハナもぎこちなく明の背中に手を回し、抱きしめ返してきた。明は全身でハナの熱を感じる。今にも燃え尽きてしまいそうな儚さに似ていた。その儚さに恐ろしくなり、明はハナを抱く手に力を込める。どんなに強く抱きしめていても、その手からするりとこぼれてしまいそうな、そんな不安を覚えた。

「明、痛いよ」

 ハナの苦しそうな声に、はっとして手を離す。

「わ、悪い」

気づかないうちにかなり強く抱きしめていたようだ。何を不安になっているんだと思う。ハナは確かにここにいるのに。無意識のうちに、いなくなった家族とハナをだぶらせていた。縁起でもない。明は気を引き締める。

「じゃあ、すぐに作って持ってくる」

「うん」

 明はようやく立ち上がると、キッチンへ向かった。どうしても足が急いでしまう。ハナを抱きしめた時から例えようのない嫌な不安が頭をのぞかせていた。ハナはどれだけ生きられるか分からない――いつか聞いた博士の言葉がふいに頭に浮かんだ。そんなはずはない。明はその言葉を打ち消すように首を振って、料理に集中しようとする。朝の残りのご飯に水を加え、火にかける。その間にねぎとしょうがを刻んでおく。包丁を持つ手が震えているのに気付いた。うまく材料を刻めない。明は強烈に、ハナを失うことに怯えていた。ハナはただ最近疲れがたまっていて、それで風邪をひいてしまったんだ、それだけのことだと自分に言い聞かせようとするけれど、そう思おうとするたびに、さっきのハナの儚い熱と、博士の言葉がよみがえって、明はどうしても平静を保つことが出来ない。

「……っ」

 指先に鋭い痛みが走る。じわじわと傷口から赤い血がにじんでくる。自分の指を切ってしまうなんて、情けない。明は小さく舌打ちして傷口をなめると、傷口が食材に触れないように気をつけながら、絆創膏もはらずに作業を再開した。不格好に刻まれたねぎとしょうががまな板の上に積み上がる。明はそれを鍋に加えると、ふたをして火を強めた。出来あがるのを待つ間に指に絆創膏を巻く。火傷なら何度もしているけれど、包丁で指を切るなんて初歩的な失敗は久しぶりだった。焦るあまり失敗してしまった自分自身への苛立ちと、鋭い痛みが明の神経を逆なでする。明は神経質に何度も鍋のふたを開けて中身を確認する。もうかなり待ったはずだと思って時計を見てみても、その針は残酷なほどのろのろ回り、鍋の中身も全然煮えていない。

 何時間にも感じられるほどの長い時間をかけて、ようやくおかゆが炊きあがる頃には、明の傷の出血もほとんど止まっていた。実際には数十分ほどだなんて、にわかには信じられないほど、明は精神的に疲労していた。おかゆを茶碗に盛りつけて、明はハナが起きているかどうかリビングへ声をかけてみる。

「ハナ、出来たぞ。起きてるか?」

「うん、起きてるー」

 弱々しい声が返ってくる。それだけで、明の心はいくらか落ち着きを取り戻した。

 明が茶碗を持ってリビングに戻ると、ハナがおぼつかない足取りでテーブルに向かって歩いているところだった。寝たままではなく、ちゃんと食卓について食べたいようだ。

「おい、無理しなくても、寝たままでもいいぞ」

「ううん、でも寝たままだと食べづら……」

 立つだけでも苦しいだろうに、健気にもハナは明に笑顔を見せた。そして、その時は唐突にやってきた。ハナは笑顔の余韻を顔に残したまま、全身の力が抜けてしまったようにゆっくりと崩れ落ちた。おかゆを作っていた時からずっと明の時間感覚が狂っていたのかと思うほど、その光景はスローモーションで、まるで世界が意地悪しているみたいに、明はその一部始終を黙って見ていることしか出来なかった。太陽が雲に隠れたのか、明の目がどうかしてしまったのか、妙に部屋の中が暗い。お椀の割れる音と、足にこぼれたおかゆの熱さが、明を現実に引き戻す。明は割れたお椀も、足に出来たであろう火傷の傷みも気にせず、ゆっくりとハナに駆け寄る。ハナが、意識を失った。

 

 はい残りは次。